鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

 ◎アヘンの耳(3)

「なぜ華人だけがアヘン吸引者だったか」(初出1979年、『アジア人と日本人』p.210、1980年)という最初の問いから出発したアヘン研究は、『マラッカ物語』「第7章スズとアヘン」(時事通信社、1981年)に最初のまとまった成果を得る。スズ鉱山の開発とアヘンの流通消費が一体のものであったという歴史的事実にたどりつく。そこにはすでに「なぜ華人だけがアヘン吸引者であったか」という問いへの回答は用意されていた。ここではその内容について言及しない。短い結論を導くことが鶴見アジア学の目的でも方法でもないからだ。

『マラッカ物語』は原稿700枚(400字詰め換算)を超え、ハードカバー450ページの大著なのだが、そこに収録できなかった2作の「反逆者伝」だけでも1冊の本として編纂できる分量があった。
 アヘンへのこだわりから、東南アジアにおけるもうひとつのアヘン戦争の分析に向かうかに思われた良行の関心は、遠回りして「アヘン戦争」の影に隠れていた民族主義的反逆者に光をあてることになる。「蘇った英雄マッド・キラウ マラヤ半植民地運動の歴史が教えるもの」(『使者』6号、1980年)と「スマトラ燃ゆ・アッラーのみ名のもとに 十九世紀パドリ戦争の血と真実」(『使者』10号、1981年)の2作である(ともに著作集5『マラッカ』「13章アジア反逆者伝」に収録)。
 1980年から81年にかけて雑誌『使者』(小学館)に掲載されたこれら2作の「反逆者伝」に対する読者の反応を見ながら『マラッカ物語』の記述スタイルを模索していたと思われる。
 しかしながら『使者』同人たちも読者も反逆者伝を書く良行にはついていけなかったようだ。東南アジアのよく知られていない一地方の歴史にそれほどまでにこだわる良行を理解する人が少なかった。「鶴見良行の瑣末主義」と批判されていたころだ。そうした批判について本人は多少、気にしていたらしい。だからこそ、本気で自分の研究スタイルを追求していたと思う。たどりついたのが、日本とのつながりや比較を極端にまで排除することだった。
「日本がなくてもマラッカは存在した」(p.441)とする『マラッカ物語』が完成する。

 さて鶴見良行が、バナナやエビと平行してアヘンに関心を持ち続けたのは、アヘンがバナナやエビと同様に「食べ物」だったことにもよる。
「十七世紀まで  食べる時代
 十八世紀  タバコと混ぜて吸う時代
 十九世紀  精製アヘンだけを吸う時代
 二十世紀  モルヒネとして注射の時代」
 (著作集5『マラッカ』p.219、『マラッカ物語』p.263)
 おおざっぱだが、わかりやすい時代区分だ。
 このあと、「華人とアヘンの結びつきの秘密は、アヘン精製の方法にあるように思われる」(著作集『マラッカ』p.219、『マラッカ物語』p.263)とあり、「なぜ華人だけがアヘン吸引者だったか」という最初の問いの謎解きが続いているのが分かる。

「アヘンの本」が容易に出版できないことを知る良行は、最後の仕事にとテーマを暖め続けていた。戦後の一時期まで、日本各地でモルヒネ用のケシが栽培されていたことを知る人は少なくなりつつある。そのような読者層に、どこからどのようにアヘンについて語るかを考え続けていたのだろう。


『マラッカ物語』
鶴見良行 著
時事通信社・1981年

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