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【「反日」とアジア学】 1974年1月、田中角栄首相(当時)が東南アジアを訪問した際に、バンコク(タイ)やジャカルタ(インドネシア)で反日暴動が起きた。 ジャカルタでの暴動は、デモ隊による放火や道路封鎖があり、約800台の車両が破壊され、470人が逮捕されている。日本側は、ある程度の反日デモを想定してはいたが、予想を上回る事態となった。この暴動は「マラリ事件」と呼ばれ記憶されている。インドネシア語のMalapetaka Lima Januari(1月15日の災難)が略されてMalali(マラリ)と呼ばれ、いまも記憶に留められている。 このインドネシア訪問に先立ち、1月9日から11日にかけて、田中首相らはバンコクを訪問しているが、そこでも大規模な反日デモが起きている。しかし、放火や逮捕者がでるという出来事はなかった。このデモを当時バンコクに住んでいた私はエラワンホテル近くの路上で見ていた。デモが逮捕者をだすような騒乱にならなかったのは、1973年10月のタイ民主革命直後のタイ社会では、反体制側と警察が蜜月のごとく親しい関係にあったからでもある。 1970年代、「反日」が東南アジアの共通意識であった。東南アジアは文化も政治もバラバラに(多様に)存在するが、「反日」という共通項で国際政治の世界で協働(共同)していた。 東南アジアの反日運動は、1974年1月がピークだった。しかし、歴史はそう簡単ではない。もともと、第二次世界大戦時の日本軍による大規模な住民虐殺の歴史があった。アジア全体で1000万人以上が殺害されている。フィリピンでは日米軍の戦闘に巻き込まれて、50万人以上のフィリピン人が亡くなっている。ベトナムでは日本軍への食糧供出の結果、50万人以上の餓死者を出している。シンガポールの街の中心地には、中国系住民の虐殺記念碑が建てられ現在も存在する。シンガポール政府と国民は歴史を忘れないよう、その記念碑を維持しているのだ。韓国では、21世紀になっても政府と国民による「反日」主義の言動が再生産され続けている。アジアの反日運動に暴力を避けるためには対話が必要だが、対話を試みる日本人は少ない。 1970年代の東南アジアからの「反日」の声にたいして、学問の世界で対話に乗り出したのが、矢野暢と鶴見良行であった。その作業が反日のアジアにたいする日本人研究者の責任と考えたからである。矢野は『「南進」の系譜』(中公新書、1975)において、日本人のアジア幻想の中身を明らかにした。南進思想の歴史分析の結果、歴史も文化も言語も知らない旅行者レベルの知識人によって日本の南進論が組み立てられてきたことを明らかにした。戦前までの日本人の東南アジアでの行動様式と戦後のそれが、ほとんど改善されないままに来てしまったこと。それが、1970年代の東南アジアの「反日」運動を引き起こしたことを明らかにした。『日本の南洋史観』(中公新書、1979)は、『「南進」の系譜』(1975)から一歩進んで、外交の論理としての「南進」を分析した。明治期以来の日本の南洋(東南アジア)進出の歴史と論理を分析することに、矢野は70年代の多くの時間を費やしている。 いっぽう、鶴見良行は矢野と同じように日本人と東南アジアとの関係の歴史について学んでいた。しかし、表現方法は異なる。矢野とは違った方向を目指している。1970年代のはじめに、日本の経済進出や日本人観光客の現地での振舞いについて、東南アジアで発行されている新聞が様々に論評してきた。しかし、日本の新聞はほとんどまったくそれに答えなかった。日本の東南アジアについての関心は、それほど薄かった。良行は、そのような東南アジアからの呼びかけに応じない日本のジャーナリズムに危機感を持った。 反日のアジアと日本人との対話は、可能なのか? どのような対話が可能か? その試行錯誤の結果として、編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)が編まれている。この本は地味な書籍だが、東南アジアの代表的論客が寄稿したという点で、戦後日本の出版の歴史に特筆される。政府お抱えの知識人ではなく、また反体制を任ずる知識人でもなく、一般国民を代弁できるような知識人が、金沢市での4日間の交流会議(1974年)に参加した。この企画自体は、国際文化会館による10年の交流事業の成果を新聞3社連合が後援し、講談社が協賛するという形で実現している。アジア文化交流金沢会議での対話の記録(p.83-133)は、匿名で記録されている。そこに、70年代当時のアジアでの言論の不自由さを読みとることが出来る。 鶴見良行編著『アジアからの直言』と矢野暢『「南進」の系譜』は、戦後日本のアジア学の再出発を表現する書籍だと私には思われる。 鶴見良行は、1971年から3年間、「アジア勉強会」という週一回の勉強会を開いて、若い研究者・行動者を育てた。良行が当初、期待していたアジアに関係するジャーナリストを輩出したとは言い難いが、個性的な行動者が多く誕生した。私もその末端に連なる。「アジア学」という良行の言い方は、地域的には東南アジアを対象とするものである。日本と欧米、日本と中国という大きな対比と平衡する概念として日本とアジアを並べ、「アジア学」を提唱した。「日本学でも中国学でもない、あたらしいアジア学の可能性」(「アジア学の展開のために」/『アジア人と日本人』所収、晶文社、1980)をめざした。 |
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■庄野護(しょうの・まもる) 1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。 |
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