鶴見良行私論(11)
【番外編:鶴見良行と四国(1)】

 鶴見良行は四国を2度、旅行している。1984年(58歳時)と1995年(68歳時)である。香川県西部への旅である。どちらの旅にも夫人の千代子さんが同行している。
 1984年の最初の四国旅行は、『アジア人と日本人』(晶文社、1980)、『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)、『バナナと日本人』(岩波新書、1982)とたて続けに本を出版していた頃のことだ。著作の評価が落ちつき、アジア学者として認知されはじめた時期に当たる。四国学院大学(善通寺市)に招待されての講演の旅である。88年完成の瀬戸大橋はまだなかった。鶴見夫妻はその頃、東京・武蔵境市に暮らしていた。桜並木が見渡せるマンションの2階である。そこから四国への旅には羽田空港から高松空港への飛行機便を利用している。
 1995年の2度目の旅行は、香川県仲多度郡多度津町への旅であった。県立多度津工業高校での講演が目的だった。多度津町は、瀬戸内海に面した小さな町である。当時、京都に住んでいた鶴見夫妻は、新幹線と特急を乗り継いで香川県に出かけた。そのときの講演が、良行の最後の講演となる。講演から3週間後、突然の死が京都の自宅にいた良行を襲った。

 人生最後の講演の地となった香川県仲多度郡多度津町は、良行にとってさまざまな情報と人脈の交錯地であった。多度津町は、鶴見夫妻の知人たちの仕事場や出身地であったのだ。たとえば、京都のN医師。良行は、1990年8月に食道と胃に癌が発見され、9月に手術を受けている。このとき、多度津町出身のN医師が、京都の病院で執刀医となっている。もともとN医師は、良行の従兄弟の鶴見俊輔のかかりつけ医であった。俊輔は、N医師から心臓手術を受けペースメーカーを装着している。
 N医師の父親は元四国学院大学教授。母親は地元のユネスコ国際交流会の代表として活動していた。N医師の母親が中心となって主宰してきた講演会に鶴見俊輔も呼ばれ、多度津町で講演を行っている。1990年代後半のことである。良行がもう少し長生きしていたら、良行も多度津町での一般向け講演会が実現していただろう。

 瀬戸内海に面する多度津町は、面積24.39平方キロ、人口約21000人(2021年)と小さな町であるが、良港があり中世の時代から瀬戸内海の海運の拠点でもあった。フランシスコ・ザビエルは、1551年の京都、堺への訪問の行きかえりに多度津港に立ち寄っている。現在も造船工場などがあって海運基地としての機能は失われていない。海上交通だけでなく、JR予讃線とJR土讃線が交わる陸の交通の要衝でもある。明治時代、四国の鉄道は多度津町を起点に敷設されている。本州との連絡船も、多度津港と広島県の尾道を結んで運行されていた。

 江戸時代には幕府直轄藩として四国経済の中心地のひとつであった。塩、砂糖、海産物が多度津港から江戸へ運ばれていた。讃岐三白(さぬきさんぱく)とは、コメ・塩・砂糖を意味する。それらに連なる海産物としてナマコも交易されていた。 香川県で採取されるナマコは「マナマコ」と呼ばれる。「赤ナマコ」「青ナマコ」「黒ナマコ」と区別して呼ばれる。現在の香川県では4月1日から10月1日まではナマコの禁猟規制が敷かれる。ナマコは、採集規制しなければならないほどに貴重な水産資源となっている。瀬戸内海では、シラスウナギが「白いダイヤ」とされ、「黒いダイヤ」とはナマコをさす。密漁は絶えない。ナマコは海外からも買い手がつく産物となっている。

『ナマコの眼』(ちくま文庫、1993)の「はじめに」(p.10)に、瀬戸内海のナマコが登場する。
「瀬戸内海の備前や周防大島では、オバさんたちがナマコに包丁を入れる。ナマコはちっと痛そうに身をちぢめる。ぶつ切りのかれらは洗濯機でゆすられ、ふたたびふくよかに水を含んで、大阪の雑喉場(ざこば)へと運ばれてゆく」
 2度の四国旅行だが、良行にナマコの「取材」を行った形跡はない。

 多度津町は仲多度郡という「郡」が冠された土地である。東に丸亀市、西に三豊(みとよ)市、南に善通寺市があり、多度津町は小さい町であるが独立性の高い町として存在してきた。多度津町が近隣の市と併合や合併をしないのは、幕府直轄藩時代からの住民の独立意識の高さからだ。
 良行がJR多度津駅に降り立ったのは、講演当日の1994年11月25日。JR新幹線で岡山まで行き、四国行きの特急に乗り換えて、多度津駅へ。
 この日のことを多度津工業高校の教員・渡辺淳氏が雑誌『みすず407』(1995)の追悼文で、次のように書いている。
「当日、十一月二十五日は、思いがけない激しい驟雨のあと、午後の淡い陽ざしが校庭を照らしていました。夫人の注意深いまなざしに見守られながら、会場へと向かわれたお姿は凜としていました。」(渡辺淳「最後の講演 船と港のある風景」、『みすず 407』1995年2月「追悼・鶴見良行」p.65)

 この文章を書いた渡辺淳氏は、講演に良行を招いた多度津工業高校の教員であった。渡辺氏は、高校教員になる前の1970年代、国立大学の工学部土木学科で助手を務めていた。助手には、助教授、教授への道が用意されていた時代の話である。しかし、僧侶の父が突然死し、実家の寺を継ぐことになった。同時に、香川県の高校教員となって、土木学科を担当する。こうした経緯から、土木学と仏教学の接点が渡辺氏の学びの専門領域となった。
 結果として、当時の最新の学問、生命倫理学にたどり着いている。80年代のはじめのことだ。のちに渡辺氏は、生命倫理学の先駆的学習者のひとりとなる。その学び方は、徹底していた。瀬戸大橋が未完で、渡辺氏は大阪・京都への勉強会に月1〜2回夜行フェリーで出かけていた。その生活は88年の瀬戸大橋開通まで続いた。

 渡辺淳氏が参加していた京都での勉強会が、岡村昭彦(1929-1985)によるホスピス(終末医療)とバイオエシックス(生命倫理学)の勉強会である。バイオエシックスの訳語としての「生命倫理学」という用語がいまだ一般化していなかった時代に勉強会を主催していた岡村は、報道カメラマンとしてヴェトナム戦争を取材していたことで知られる。『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書、1965)と『続南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書、1966)は、ベストセラーとなっている。だが、岡村の最晩年の仕事は、ホスピスとバイオエシックスを日本に伝える仕事になった。東京医科大を中退し、さまざまな職を経験した後に報道カメラマンとなった岡村は、最後に「命と死」を考えるようになったのである。(参考:高草木光一『岡村昭彦と死の思想 「いのち」を語り継ぐ場としてのホスピス』岩波書店、2016)

 岡村の生命倫理学とホスピスの勉強会は、京都府左京区の被差別部落で月一回ひらかれた。岡村が住み込んでいた地区である。1980年代前半の頃だ。全国からホスピスと生命倫理学とに関心のある看護師や医療関係者たちが集った。
 渡辺氏は、この勉強会の事務局長役として会の運営に参加している。岡村は、1970年代後半から良行の友人・本多勝一と報道論争を繰りひろげ、論争記録を残している。その岡村・本多論争については、どちらが真実を追究したかという視点で論争記録を読み返せば、見えてくるものがあるだろう。90年代は本多の言説が優位であった。しかし、21世紀の現在では岡村の残した書籍を読み返す読者が増えている。『岡村昭彦集』全6巻は、筑摩書房より1986-87年に刊行されている。

 勉強会の成果のひとつとして、関西での日本最初のホスピス病棟づくりがある。淀川キリスト教病院ホスピス病棟である。こうした活動は、岡村が学会に所属する研究者ではなかったため、日本の生命倫理学会で岡村の業績を引用する研究者は、極めて少ない。社会思想史家の高草木光一(慶応義塾大学教授、1951-)による『岡村昭彦と死の思想「いのち」を語り継ぐ場としてのホスピス』は、例外的な書籍である。しかし、日本での最初のホスピスと生命倫理学の勉強会が、岡村によるものであったという事実は忘れ去られることはないだろう。


アジア人と日本人
『アジア人と日本人』
晶文社・1980年


『アジアを知るために』
筑摩書房・1981年


『バナナと日本人』
岩波新書・1982年

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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。