鶴見良行私論(3)
【網野善彦「海から見る日本」と、鶴見良行「海から見るアジア」】(2)

『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)以前の鶴見良行の著作には、アジアと日本との関連に言及した箇所はほとんどない。特にアジアと日本を歴史的に比較することは皆無だった。初期の『マラッカ物語』(時事通信社、1983)では、マラッカと日本のかかわりについては、意識して言及を避けている。その理由を「あとがき」に記している。
「海峡と日本人との歴史的なかかわりも無視されている。(中略) /だが、日本欠落という難点については、著者の側にもいささかのいい分がある。変な表現だが、日本がなくてもマラッカは存在したのである。思いきって日本を離れて、先方だけを描いてみたかった。歴史のつながりをあげつらい日本人読者の感情移入を促すようなことを控えたかった。/いったん切り離した上で、なおそれでも残るかかわりを相互に確認すべきだ。」(原文は/部分で改行。p.441-442)

「日本がなくてもマラッカは存在した」と書き、日本とアジアの関係への言及は意識して避けてきたのが鶴見良行だった。しかし、『マングローブの沼地で』(1984)を経て、東南アジア世界と日本の中世世界との共通性を見いだしていった。それは、良行自身にとって思いがけない「発見」となる。その後、数年をかけて、自然・海・土地と人間との「無所有」の関係にたどり着く。それは長期にわたる道程の結果だった。そのようにゆっくりと歩んだのが、鶴見良行である。

 自然や大地に「所有」という考え方が生まれたのは、17世紀頃のことだ。早い地域では16世紀、おそい地域で19世紀、20世紀まで土地の所有というような概念は生まれなかった。所有という考えを先に生み出し、社会を支配した者たちが所有概念のない人たちを支配するという社会関係が近代(16世紀以降)になって生み出された。「そのプロセスを冷静に考えてみるべきではないか?未来の人類のために」。直接的な言及はないが、そのようなメッセージを良行は残している。

 土地所有が生まれ、そこに差別が生まれた。良行は次のようなコトバを発している。
「土地をもっているバジャウ・ダラットにくらべると、バジャウ・ラウトは賤民なんだという意識があるんです。日本でも家船が差別されていたのとおなじで、土地をもっているということが大きいわけです。」(秋道智彌との対話、『歩きながら考える』p.509)
 所有から生まれる差別を克服するために無所有の可能性を考えてみるべきだ。そんなふうに良行は考えていたようだ。

「無所有」とは、自然や土地の所有・私有が生まれる前の人と自然・土地との関係である。コモンズ(共有物)という言い方をするひともいる。東京にコモンズという名の出版社があるが、無所有あるいは共有の考え方を活動の土台としている。良行は東南アジアを歩くうちに、海や大地がコモンズとして存在していることに気づいた。そして、同じように海や大地がコモンズとして存在していた中世日本に注目してきた。アジアの人びとと自然・大地との関係に日本の中世世界との共通点を見いだしていったのである。その結果たどり着いたのが、日本社会史研究の網野善彦らの著作群であった。1980年代後半、『海道の社会史 東南アジア多島海の人びと』(朝日選書、1987)に取り組んでいた頃のことだ。

 良行は、網野社会史を読む込むことで、東南アジアと日本を見つめる視点を得た。それが、『ナマコの眼』での論述に表われてくる。身分制と差別の問題について、東南アジア島嶼部と日本の比較を何度か試みている。
「幕藩体制下の漁民は、およそ例外なくどの藩でも、農地を持つか否かで身分が決まった。土地無しの専業漁民は、どれほど技術に優れ漁獲が多くとも、身分はごく低かった。/江戸期、長州藩では、土地無し漁民は門男(もうど)と呼ばれた。門男は本百姓と異なり、人頭税に当る門役銀を免除された、いわば哀れむべき身分だった。」(『ナマコの眼』ちくま学芸文庫、1993、p.524、原文は/部分で改行。)

『ナマコの眼』の発刊を記念して行なわれた初めての網野善彦との対談(1990)のなかに、互いのオリジナルな研究成果を述べあう箇所がある。相手の発言に触発されて、一歩踏み込んだ見解が述べられている。
 鶴見「一番差別されている魚──まあ、ナマコは魚じゃありませんけれども──に目をつけて書いたら、少しは見落とされてきた生物が出てくるんじゃないかと思ったわけです。差別の問題をきちんと出したいと思ったものですから。」(p.404)
 こうした差別論のへの誘いに、網野は歴史学的に詳しい話を持ち出し、自らの研究成果を披露している。加賀藩の能登でナマコを扱う実質的な商人が身分の上では頭振や水呑という貧しい百姓のような身分を割り振られていたと語り、次のコトバを続けている。
 網野「内浦の宇出津(うしつ)は古い港ですが、中洲にできた宇出津新町の住民は、全部頭振なんですね。江戸時代の制度では町と村が制度的に分かれているので、町として認められたところは町人という身分が出来ます。/ところが、制度的に町として認められていないけれども、実質上は都市であるところは、江戸時代の海辺にはいたるところにある。能登の場合は、(略)そういう場所は非常に多いのです。」(原文は/部分で改行。p408-409)

 そのあと網野は、水呑とされる身分の者でも大金持ちの商人がいた歴史を語る。士農工商の四身分が揃うのは、都市とその周辺のみであったという事実。士農工商の四身分が揃わない能登のような地方では、実質は商人であっても頭振や水呑という農民の身分名称が割り振られていた。網野がその説明の言外で語っていることは、東北地方や僻地、山間部などの、士農工商の四身分が揃っていない地域では最下層の身分外の身分の人たちの集落も形成されなかった、という歴史的事実である。歴史家・安良城盛昭(1927-1993、東大助教授、沖縄大教授、大阪府大教授)が問うてきた被差別部落の偏在(地域的な偏り)の問題は、これでひとつの説明がつくかもしれない。

 網野は日本の中世と近世世界を比較することで差別や身分の歴史的意味を考えようとしてきた。その分野に良行が関心を持ち、網野の著作を読むようになった。網野は、日本歴史学から無視され論じられてこなかった非農業民を取り上げて中世史を論じ、いっぽう良行は誰も論じてこなかったナマコや漂海民について正面から詳細に論じようとした。そこに網野と鶴見の共通点があった。

 1990年の『ナマコの眼』出版を記念しての対談は、良行自身が希望して臨んだ対話であったと思われる。「ぼくは網野さんの書かれているものはだいたい読んでいると思いますけども」と良行は対談の冒頭で述べている。1990年の初めまでに網野は10冊の単著を書いている。
 だが、網野のほうが、この対談への準備は優っていたと思われる。というのは、『対談集 歩きながら考える』の帯に引用されている網野・鶴見の対談内容に次のような発言がある。
 網野「ですから入会の根源をたどると、その大本にある自然はだれのものでもないという思想にたどりつき得るのではないか。それは現在の乱獲や自然破壊に対する歯止めの根本になってよい思想だと思うんですけどね。日本の社会の中にも、かすかながらそういう思想は残っていると思いますけど、鶴見さんがこの本でお書きになった世界は、そういう考え方が……。」
 鶴見「そういう考え方は非常に強くあるような気がしますね。」(鶴見良行『対話集 歩きながら考える』の帯に引用された部分、およびp.412)
 ここでは、網野の歴史解釈が鶴見良行の発言に先行し、網野が二人の対話内容をまとめているかのようだ。

 1993年7月16日に良行は九州への調査旅行先で次のような葉書を網野善彦に書き送っている。「五島列島福江島の西側、離島の嵯峨島に来ています、(中略)嵯峨島の漁民はきわめて活発で、対馬・朝鮮近海で漁をして、魚を長崎まで運んでいます。いずれお目にかかります。五島列島にて 鶴見良行」(「みすず」407、1995年2月号、網野善彦「鶴見良行氏の逝去を悼む」p.58)
 良行が網野との3回目の対談を望んでいたことがわかる。対談は、『ココス島奇譚』(1995)が脱稿した後、95年の秋か96年春あたりに行なわれる予定だった。しかし、良行は、1994年12月に突然この世を去った。未完原稿のまま、『ココス島奇譚』は1995年12月に刊行された。

ナマコの眼(鶴見良行)
鶴見良行『ナマコの眼』
ちくま学芸文庫 1993年
1234567891011121314|15|1617181920【鶴見良行私論:総合目次】

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。