●怒り───────ラオスにないもの【5】

竹籠でモチ米を蒸す

鳥売り
 ラオス人は、怒らない。どんな時も、怒りを表にあらわすことはない。私は見たことがない。これは、怒りの表現形式が、私たちがイメージするものと大きく違っているということなのだろう。喜怒哀楽は、きわめて身体や精神に直接かかわる文化的現象である。怒りのない文化に育てば、怒りをあらわすような人間にはならない。
 といって、ラオス人の感情や精神にストレスや不満がないというわけではない。表現が直接的でないということ。言語化されないこと。見える形での表現がないということである。あくまで間接的。特定の同僚への不満は、第三者に静かに語られる、という表現形式である。
 援助関係で働く日本人は、そんな間接的不満をたびたび聞くことになる。しかし、それを下手に処理しようとすると、評価を下げるのは日本人自身となる。
  ラオスで働く日本人が、大声でラオス人の部下やカウンターパートを怒ったとする。彼、あるいは彼女は、周囲のラオス人から距離を置かれて、ますます仕事がやりにくくなるだろう。ラオスでは怒りを言葉や態度であらわすのは、人間として程度の低い者の行為なのである。
 そんなラオスと正反対の国がモンゴルである。モンゴル人は、怒りをストレートに相手にぶつける。そして、それが友情や信頼を育てることになる。怒りをぶつけてこないような人間は、信頼に値しないのである。しかし、ここはモンゴルではなく、ラオスである。どんな怒りの言語的表現も、マイナスの評価しか与えられない。
 怒りも笑いも文化的現象である。100年前の日本人は、現代日本人のようには笑わなかったし、怒りを表現することもなかった。今の日本人は、そのことにすでに自覚的でないようだ。 ラオス人の怒りのなさから気づかされることは多い。

【著者紹介】庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。アジア各地への放浪と定住を繰り返し、文化・言語の研究を続ける。タイ、ベトナム、インドネシア、バングラデシュ、スリランカ、パプアニューギニア、ケニアなど、アジア・アフリカでの活動歴は40年、滞在歴は20年ちかくになる。多様なフィールド体験に裏うちされた独自の視点をもつアジア研究者である。著書に『国際協力のフィールドワーク』『スリランカ学の冒険』『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(共著・新評論)。現在、ビエンチャン在住。

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