●本───────ラオスにないもの【4】

黄金の仏塔タートルアン

ブーゲンビリア

コーヒー屋さん
 ラオスは、本を読まなくても大学生が務まる不思議な国である。大学でも大学院でも、授業は講師や教授が一方的に話し、学生たちはこれをノートに筆記する。講義のノートをとる技術は一流であるかもしれない。指定教科書とか参考書は、ほとんどない。本を読んでレポートするというような宿題は、聞いたことがない。そもそも、本のない国なのである。 現在のラオスの大学院で英語の本が読めるのは、10人に1人。贔屓目に見ても、10人に2人。しかも、読む速度は大変遅く、1週間に1冊読めるかどうかという速度である。アメリカの大学院のように1週間に3〜4冊の本を読んでレポートというような宿題に耐えうる大学院生はいない。まだ、会ったことがない。
 1975年の革命が成立するまで、リセ(高級高校)での講義はフランス語で行われていた。小さな図書館にはフランス語の本が並んでいた。当時は、リセの学生は超エリートでエリートとしての自覚もあって、フランス語の本を読んでいた。75年の革命後、やっと首都に大学が設置された。そして、今度はフランス語に代わってロシア語が大学での使用言語となった。 ロシア語は覚えるのに難しく、ロシア語教育がやっと軌道に乗り始めた矢先、ロシアは崩壊した。大量のロシア人教師たちは、引き上げていった。1990年以後、やむを得ず、英語が採用された。しかし、現実には大学での教育言語はラオス語となった。タイ語のテキストも使われている。ラオス語の本やテキストがほとんどないからである。
 75年の社会主義革命後、ロシア語の時代にフランス語の本が破棄されるということが起きた。読書を好む知識人は、思想改造のキャンプに送られた。そこで何人病死したかは、公の統計には載っていない。そのような社会経験がもたらしたものは、読書をタブーとする社会感覚であった。
「本を読むのは悪いこと」という社会感覚が生まれた。「本を読まないほうがよい」「本は読まなくてよい」という感覚を大衆は共有するようになった。いったん図書館に本がなくなったのだから、大学や高校では本を読もうにも読めなくなってしまった。いま、形の上では図書館はあるが、図書館で勉強する学生や、図書館で本を借りる学生はほとんどいない。私は、まだ、出会ったことがない。
 私は英語の本をコピーして、読んでほしいと思う関係者に配布している。しかし、ちゃんと読まれているふうではない。本箱においてある私の持ち込んだ英語の本もほとんど(まったく)読まれない。本は読まれないので、ラオスでは本の価値は低い、といえる。そして、読書は、実質的に社会的タブーの領域のなかに今もある。 ただ、本がなくなっていく時代にあって、読書の経験がなく、パソコンだけにたよった学習だけになるという未来を想定すれば、ラオスは時代を先取りしているかもしれない。最先端の文化は、遅れた領域や地域から生まれるものである。

【著者紹介】庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。アジア各地への放浪と定住を繰り返し、文化・言語の研究を続ける。タイ、ベトナム、インドネシア、バングラデシュ、スリランカ、パプアニューギニア、ケニアなど、アジア・アフリカでの活動歴は40年、滞在歴は20年ちかくになる。多様なフィールド体験に裏うちされた独自の視点をもつアジア研究者である。著書に『国際協力のフィールドワーク』『スリランカ学の冒険』『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(共著・新評論)。現在、ビエンチャン在住。

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