学陽書房時代の大江正章が企画・編纂した一冊に、『コモンズの海─交流の道、共有の力』(学陽書房、1995)という本がある。刊行当時、すでに良行は亡くなっていたが、中村尚司・鶴見良行編著として出版された。良行の死後、5ヵ月後のことであった。
『コモンズの海』には、経済学者・玉野井芳郎(1918‐85)の論文が、第1章「コモンズの海」として冒頭に掲載されている。玉野井が亡くなって10年後の収録であった。玉野井は東京大学経済学部教授を定年退官したのち1978年に沖縄国際大学教授に就任した。その後、明治学院大学に移る85年までの8年間、沖縄に居住し「地域主義」研究に取り組んだ。
「『コモンズの海』は、玉野井芳郎の研究生活にとって最晩年の課題であった。若い研究仲間に声をかけて、三度目の研究会を学陽書房で組織した。この研究会には、長年アジアの漁村を歩いていた鶴見良行が加わった。しかし、残念ながら,玉野井はこの三部作(引用者註:三部作とは、『地域主義 新しい思潮への理論と実践の試み』学陽書房、1978/『いのちと“農”の論理 都市化と産業化を超えて』学陽書房、1984/『コモンズの海』学陽書房、1995)の最終巻をまとめる時間が残されていなかった」(中村尚司「はしがき」『コモンズの海』所収、学陽書房、1995)
「コモンズ」について述べた、玉野井論文がある。
「本土には昔から入会権というのがあって、共同利用の山や海がある、生活の足しになる薪を採ったり、あるいは秋にはキノコを採ったりする。そういう共同利用の森や山がある。すなわち、入会権というものが古くからあったが、これと同じように、沖縄の場合にも、沿岸村落がこれを共同に利用するための村ごとの内法として、そういう慣習法があったのではなかろうか。村びとの生活を律する規範となるような内法である。おそらく琉球王府はこの共同利用件を認めていたであろう。また、それを前提にして租税体系もなりたっていたとみなければならない。」(玉野井芳郎「コモンズとしての海」、『コモンズの海』(1995)所収、p.6)
1970年代、「地域主義」を理解する人は多くなかった。地域主義は「革新派」の人々から批判にさらされた。「社会主義」や上からの「革新政冶」の考え方が、当時の市民社会の主流をなしていた。沖縄国際大学で研究していた玉野井芳郎への批判は、沖縄の地域新聞「沖縄タイムズ」や「琉球新報」などに度々掲載されている。玉野井は同じ大学に所属する研究者から新聞で批判されたこともある。その経験が、玉野井を沖縄から東京へ転居させる理由のひとつになったのかもしれない。
やがて、ソビエト連邦が崩壊し、東欧の社会主義国家が消滅してゆく時代の流れの中で、日本の社会思想も大きく変化した。旧来の社会主義者たちが、「地域主義」を見直すようになったのである。上からの国家社会主義の幻想から覚め、「下からの民主主義」を希求するようになった。
『コモンズの海』というテーマは、玉野井が「地域主義」研究で見直してきた概念であった。
玉野井の沖縄での研究活動がなければ、1980年代の良行アジア学の発展は、別の方向に向かっていたかもしれない。その意味で玉野井と良行の出会いは決定的に重要であった。大江正章が、玉野井と良行を結びつけたのだった。
『バナナと日本人』(1982)に取り組んでいたころの良行の周辺には、マルクス主義唯物論を信奉する研究者たちが大勢いた。彼らが当時の社会では主流であった。バナナなど小さなことにこだわっていた良行は、「瑣末主義」などと呼ばれていた。孤立しがちだった良行の支えとなったのが、玉野井の研究と業績である。良行は、「バナナ」や「エビ」や「ナマコ」といった農作物や海産物を素材にアジアの歴史と文化を語ってきた。鶴見アジア学の背後に玉野井の地域主義研究があったといえよう。そこに「小さな事からアジアを学ぶ」という良行のアジア学が生まれたのである。
1989年にベルリンの壁が崩壊してから、世界は大きく変化した。良行は、国家や党の主導でない、地域と個人を起点とした新しい世界観を提示するためのアジア学に取り組んできた。『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)は、その集大成であった。大きな世界史の変化の中で小さな「ナマコ」を中心に据えて世界を見返した。玉野井がいなければ、『ナマコの眼』は生まれなかったかもしれない。