鶴見良行が唯一敬愛してその著作に取り組んだ海外の知識人は、1970年代になって出会ったフィリピンの歴史哲学者、レナト・コンスタンチーノ(1919−1999)である。論文「なぜフィリピンはフィリピンであるのか」(『アジア人と日本人』晶文社、1980)は次のような書き出しで始まる。
「五十一歳の今日まで、いろいろの書物を読み、影響を受けた。今『あなたが感銘した思想家は』と訊ねられれば、私はためらうことなく、かれの名を加えるだろう。日本の思想界の潮流からすれば、これはたぶんに奇異なことだろう。フィリピンなんて……。そもそもフィリピンに偉い思想家がいるのか。私がコンスタンチーノに触発されたのは、大よそ三点ある。第一は、(以下略)」(p.183)
『東南アジアを知る』(岩波新書、1995)では、以下のようにコンスタンチーノに言及している。 「私が強く影響を受けたのは、『フィリピン・ナショナリズム論』の下巻に入っている「民族的自覚の問題」という論文です。そこでは、こういうことが書かれています。フィリピン人であるという民族的自覚──彼はネーションフッド(nationhood)という言葉を使っていますが──は未完成の発展的概念である、というものです。この文章から二つの示唆を私は受け取ることになります。(以下略)」(p.46-47)
レナト・コンスタンティーノを1970年に知り、彼の著作を読んで交流し、74年にはふたりで協力して金沢市でアジア人会議を開催するまでに至る。公式には国際文化会館の事業(「アジア文化交流金沢会議」1974年6月5-9日)ではあったが、ふたりの関係の発展がもたらした国際会議であったともいえよう。
金沢アジア人会議の記録として、鶴見良行編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)がある。その後に良行が取り組んだのが、東南アジアの知識人の著作や文学作品を翻訳して日本に紹介するという出版事業である。金沢アジア人会議に出席した人物たちの著作翻訳が出版されていくといく経過をたどった。
そうした出版事業を積極的に支援したのが、勁草書房(東京)の二代目社長、井村寿二(1923−88)であった。井村は、社内に別会社「井村文化事業社」を設立して応じた。別会社を勁草書房社内に置いたのは、アジア関連本の出版事業が赤字になっても井村個人が責任を負うとしたからである。尚、勁草書房の現社長、井村寿人(いむらひさと、1958−)は、1970年代に日本の高校を卒業した後にフィリピンのシリマン大学に学び卒業している。(参照:勁草書房編集部ウェブサイト「けいそうビブリオフィル」)
出版社社長であり編集者でもあった井村寿二は、金沢医大を卒業している。井村は、医師免許を持つ編集者でもあった。この井村との出会いがなければ、良行のアジア学者としての生き方は、違ったものとなっていただろう。
良行の「アジア学者」としての出版デビューは、この金沢アジア人会議を記録した『アジアからの直言』である。この本ではじめて良行は、編著者としてアジア本を世に問うた。当時すでに良行には単著『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970)があったが、ベトナム戦争を論じた哲学書であり、アジア関連書籍としては扱われていない。
『アジアからの直言』には、レナト・コンスタンティーノが「いまや小アメリカ人」という12ページの小論を寄稿している。きびしい反日論である。その小論の末尾に「訳・鶴見良行」とある(p.60)。出会いから4年を経過した良行とレナト ・コンスタンティーノの関係が伺える。
金沢アジア人会議には、東南アジア各地の知識人たちと在日朝鮮 ・韓国人の知識人たちが参加した。金沢市への国際会議誘致は、井村寿二が金沢に生まれ、金沢に育ち、金沢医科大学を卒業した経歴による。この本格的な国際会議を金沢市で開催することに、井村寿二自らが細やかな受け入れ体制を準備した。そのことを知る人は、今は少ない。
1970年代前半、東南アジアは反日の時代であった。タイでもフィリピンでも現地の新聞は毎日のように反日記事であふれていた。『アジアからの直言』も反日論に満ちている。そんな反日国際会議が地方都市 ・金沢で開催された。全国から右翼の街宣車が金沢の町に集結することもありえただろう。が、結果的には穏やかに開催され、無事終了した。
この成功は、井村寿二ら金沢ネットワークの支援の結果でもあった。本論では井村寿二の名前しかとりあげないが、多くの協力者がいた。宿泊施設関係者だけでなく、地元新聞社や大手新聞社支局で働く新聞記者たちも協力した。新聞記者たちは、記事を書くことだけでなく、「書かない」ことでも協力した。当時において、反日国際会議の取り扱いは、それほど気を使うものだった。
井村寿二らの金沢ネットワークに関連して、良行は1974年から76年にかけて金沢市の古本屋から東南アジア関連書籍を50冊以上、買い付けている。金沢の古書店には、戦前・戦中のアジア関連書籍が多く残されていた。金沢市が、第二次世界大戦で米軍による空襲を受けなかったからである。
良行が金沢市の古書店から購入した文献は、彼の著作に何冊かが登場する。『マラッカ物語』(時事通信社、1981)には、その一部が巻末の文献紹介欄にある。『終章 海峡の争奪』「安全と自由」では、9冊の日本語文献が記されている(p.436)。1926年から44年かけて発刊された東南アジア研究書である。
それらの文献紹介のあとに、良行は次のようなコメントをしるしている。
「これらは、資源論、経済圏(アウタルキー)論であるが、マラッカ海峡をまともに論じたものは見当たらなかった。それは、大東亜共栄圏が主として海峡以東であり、東西交易が復活する「戦後」を見通せなかったからであり、かつまた海峡を日本軍がすでに確保したからである。戦時までの南方文献は(9)〔南方拓殖協会『南方文献目録』1942:引用者註〕および(5)〔横浜高商太平洋資源研究所『南方共栄圏経済研究』大東書館、1942:引用者註〕の末尾が詳しい」
『マラッカ物語』では、日本語文献から引用や参照は極端に控えられている。それは、意識的であった。日本からの視点の欠落について、「あとがき」で次のようにある。
「日本欠落という難点については、著者の側にもいささかのいい分がある。変な表現だが、日本がなくてもマラッカは存在したのである。思いきって日本を離れて、先方だけを描いてみたかった。歴史のつながりをあげつらい日本人読者の感情移入を促すようなことを控えたかった」(p.441-442)
「先方だけを書く」という著述方法については、あとで反省したようだ。読者からの指摘もあったようだ。東南アジアを知らない読者に、どのように情報を届けるか? 記述の方法や説明の仕方について、真剣に検討を重ねている。
のちに著述方法を見直して挑んだのが、『バナナと日本人』(岩波新書、1982)であり、『マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い』(朝日新聞社、1984)であった。
『マングローブの沼地で』の第1章「ミンダナオへの旅」のなかで、金沢市の古書店から1976年に入手した文献について、次のようにしるしている。
「パガルンガン(ミンダナオ島:引用者註)には私もいったことがある。(中略)モロ民族解放戦線の結成もこの土地だった、という。三吉朋十(みよしともかず)の『大南洋地名辞典、比律賓』(丸善、1941)にはパガルンガンについて次の記述がある」
「コタバト町の東約七二キロにありて大原野の展望を得られる。十七世紀の頃、ヌネス、マルカンポ両人は兵を率ゐてモロ族を討伐せしことあり。東北一帯は低き丘陵地帯にして椰子、麻、米等を産す」(p.81-82)
このあと参照文献へのコメントが続く。
「余談だが、三吉の『地名辞典』は、戦前期、日本人の手に成る東南アジア地誌としては、まことにすぐれた労作である。史書を読んでいてその村がどこにあるかを探すのは、かなりの難事だ。その点でこの辞典に教えられることが多い。太平洋戦争開戦の直後に刊行されたが、軍部の関心を反映してか。港には必ず水深が記録されている」(p.82)
『大南洋地名辞典 比律賓』がなければ、『マングローブの沼地で』は違った内容になっていたかもしれない。フィリピン・ミンダナオ島への、良行の調査旅行を無事成功させたのも、金沢の“縁”によってもたらされた、この『地名辞典』であったといえるかもしれない。