旧著探訪 (37)

 『タタール人の砂漠』    ■ディーノ・ブッツァーティ著/脇 功 訳/岩波文庫/2013年■ 
タタール人の砂漠
 1960年代テレビで活躍していた外国人タレントのひとり、ロイ・ジェームスがタタール人だと知ったのはつい数年前のことだ(朝日新聞朝刊「ハラールをたどって(3)」2018.6.6)。てっきりアメリカ人だと思っていた。というか、当時小学生であった私は外国人と見ればアメリカ人という呼称以外に頭に浮かぶものがなかったのだから無理もない。もちろんタタールなんてことを教えてもらったところでイメージのしようもない。ロイさん一家はロシア革命後に日本へ亡命してきた白系ロシア人であった。
 1920年代当時日本へやって来た白系ロシア人にはスラブ系とトルコ系があり、トルコ系はタタール人と呼ばれイスラム教徒であった。ロイさんの父親は東京回教礼拝堂(現東京ジャーミイ)の導師を務めていたという。
 このタタールという民族名はじつにややこしい。いろんな文脈でその意味するところが微妙にずれていたりする。しかも自称・他称が入り交じってその出自が見極めにくい。  現在国名にタタールを冠しているのはロシア連邦のタタールスタン共和国。ヴォルガ川の中流域に位置する。もともとこのあたりは13世紀モンゴル帝国に征服され、そのブランチであるキプチャック・ハン国が支配していた地域。いわゆる世界史で習った「タタールの軛」というやつである。この文脈ではタタール=モンゴル系となる。しかし現在そこに住むタタール人は、フィン人やハンガリー人などの先住民と、のちに移住してきたトルコ系民族との混血であるそうだ。モンゴルを意味するタタールという呼称を政治的に名乗ったといえそうで、民族的にはトルコ系ということになるのだろう。ロシア側からすればイスラム教徒を総じてタタールと呼んだようでもある。
 日本ではタタールのことを中国由来の「韃靼」(だったん)と称することがある。司馬遼太郎と井筒俊彦の対談(『二十世紀末の闇と光』中公文庫、2004年)で小説『韃靼疾風録』の「韃靼」という用語が話題になっているのだが、司馬氏はここでの「韃靼」はツングース系の「女真族」を意味すると述べている。いっぽう青年時代の井筒氏がイスラームとアラビア語の師として言及している二人のタタール人のことは「トルコ人(トルコ系)」と紹介している。いわゆる反ボルシェビキの白系ロシア人である。こちらはヴォルガ川流域のタタール人ということのようだ。
 そもそもタタールという呼称は、6世紀半ばから8世紀半ばにかけてモンゴル高原をすっぽりと収めた広大なユーラシアを支配していたトルコ系遊牧民国家突厥がモンゴル高原の東北で遊牧をしていた諸部族を「タタール」と呼んだらしい。意味するところは古テュルク(トルコ)語で「ほかの人々」という。その「ほかの人々」が、のちに東は満洲の地から、西に向かってモンゴル、中央アジアを経て、東ヨーロッパまで、ユーラシア内陸部の東西にまたがって、他称から「わたしたち」へと転じさせていった。人種的にいえば、モンゴロイドからコーカソイド、あるいはその混血、濃淡あいまってバリエーションに富む。ふぅー、なんだかややこしい。
 さて、さきに述べたキプチャック・ハン国を建国したチンギス・ハンの孫バトゥのヨーロッパ遠征(1241年ワールシュタットの戦い)での残虐非道ぶり(モンゴル軍は敵方を倒した印に鼻をそぐしきたりがあり、一説には27万人の鼻をそいだという。ただこの会戦は史実ではないという説も)から、ヨーロッパ人にとってのタタールのイメージはきわめてわるい。ラテン語で「エクス・タルタロ(地獄から来た者)」のタルタロの連想からモンゴル人をタルタルと呼び習わしたともいわれている。「蛮族・夷狄」の意であろう。タタールを想起させる呼称である。

 さて、そんなわけで「タタール」のわかりにくさがずーっと長いあいだ個人的に引っかかってきていたところ、つい最近『タタール人の砂漠』(岩波文庫・2013年)という小説に出会った。もちろんこの「タタール」という言葉に惹かれてのことである。作者はディーノ・ブッツァーティ(1906-72)というイタリア人作家。恥ずかしながらまったくの不案内である。あとで知ったことであるが、カフカの再来ともいわれた高名な作家であった。ともかくも小説仕立てでタタールを学べたらという私の浅知恵は、なんとなれ、じつはいい意味で大きく裏切られることになったのだ。
 こわい物語である。とくに私のように60を過ぎて読むと致命的ですらある。いくつかのレビューにこの作品は青春時代に読むべしなどとアドバイスされているのを見たが、そのような若かりし頃に読んだところでその後の人生の展開が違ったものになっただろうか、はなはだ疑問にも思えるのだが、いやいや、老境に入った輩のたんなる負け惜しみか。ともあれ、これほどに身につまされる思いに駆られた小説体験はこれまで、なかった。
 あらすじはきわめて単純でである。これといった事件は、何も起こらない。じつは、そのことこそがこの物語の主題である……。
 士官学校を卒業したばかりの新人中尉ドローゴが国境警備の任を受けて辺境の地にあるバスティアーニ砦というところに配属される。そこは「無用の国境線」といわれるほどに軍事的にも歴史的にもほとんど意味を持たない国境地帯。砦の北側に荒涼たる「タタール人の砂漠」が広がっているだけ。陸の孤島である。敵が砂漠の向こうから攻めてくる可能性など微塵も考えられないし、そうした記録も過去に認められない。「戦略的にもどんな作戦計画からも除外された、単なる仕切りにすぎなかった」。つまりあってもなくてもいい砦なのだった。
「タタール人とはまたどうして?」「大昔には(タタール人が)いたんだろうよ。伝説さ。砂漠のむこうに渡った者なんかいやしない」「じゃあ、砦はこれまで一度も役に立ったことはないんですか?」「なんの役にもな」
 物語の最初のほうでやりとりされる会話である。この段階で「タタール」は主題ではないことがはっきりとわかったのであるが、タタール云々なくしても、この物語にぐいぐい引きこまれていくことになってしまった。そう、事件らしい事件が起こるわけでもなく、ドラマティックな人間模様が繰り広げられるわけでもない。ただただ不必要なほどに過剰で、滑稽なほどに無意味な軍規にしばられた、兵舎での耐えがたい、単調な日常の繰り返しが、たんたんと描かれるだけなのに。主人公のドローゴ中尉だって、着任早々にこの無用の長物の砦で青春をむなしく費やすなんてごめんだ!と考える。彼は4か月をめどに転属願いを出すことにしたのだった。4か月後に予定されている健康診断の機会に軍医に「心臓の機能障害」という診断を作文してもらうことにしたのだった。これでうまく事が運べば軍歴に傷をつけることなく、ここからおさらばできる。そう計画し、軍医の同意も取り付けた。なのに、ぎりぎりになって心変わりするのであった。理由づけはいくつもあった。「習慣のもたらす麻痺」「軍人としての虚栄」「身近に存在する城壁に対する親しみ」……。ともあれ「単調な軍務のリズムに染まってしまうには、四か月もあれば充分だった」のである。その背景には、若者がしばしば持つ、未来に有する無尽蔵とも思える、たっぷりの「時間」への期待とおごりがあったのだ。
 そして英雄的な空想にふけるのだった。砦が何千というタタール人に包囲される。かれはわずかな部下を引き連れて果敢にも突撃を決行する。重い傷を負いながらも激しい戦闘を指揮し、最後には敵を壊滅するのであった。国王みずからが彼の働きを賞賛している……。そうした夢物語を夜のしじまに何度も何度も反芻しながら気持ちを高ぶらせるのであった。しかし、夢物語は夢物語以上のものではなく、いくら待っても実現の可能性はないのだった。
 空漠としたタタール人の砂漠の向こうを毎晩凝視しながらいつかはやって来るであろう敵を待つのだった。冷静になればそんな馬鹿げたことは起こりようもないのだが、「ずっと先きで栄光をかちうることができると思い込み」、「まだまだ時間は無限にあると信じて」「いずれすべてが充分に報われる日が来る」と考えている。
 ……そして、ドローゴの手持ちのページは何ページも何ページもめくられ、「尽きせぬ幻影」を追いかけて、何事も起きないままに30年の時が過ぎた。いまは少佐に昇進し、砦の副司令官となった。人生の盛りはとっくに過ぎ去ってしまった。しかも退官まであと数年というところで、肝機能の障害に苦しむことになり、日ごとに衰弱していくのであった。
 時すでに遅し。もう今となっては英雄譚なんぞ望むべくもない。しかし、最後の最後にドローゴは病魔とともに襲いかかってくる「エクス・タルタロ」との戦いに臨むのであった。「全生涯を賭しうる最後の戦い」である。生死の狭間で、はたしてドローゴは運命に一矢を報いることはできたのか!? まことに傑作である。2020.5.23(か)
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