旧著探訪 (36)

 『大統領(フセイン)の客人』人間の盾にされた120日間  ■池田龍三著/新潮社/2017年■ 
大統領の客人

アラビスト外交官の中東回想録

これでも国家と呼べるのか

呆然!ニッポン大使館
 6月から9月にかけて、国立民族学博物館(みんぱく)で「サウジアラビア、オアシスに生きる女性たちの50年」という企画展が催された。人類学者・故片倉もとこ氏がフィールドワークしていたワーディ・ファーティマ地域(ジェッダから東の方へ60〜80キロほどの内陸に位置するオアシス)を中心に、氏が収集・記録してきた、住まいや衣装、装身具、生活用具類などを通して、あるいは50年前に氏によって撮影された写真と、近年追跡調査したさいの最新の写真との比較を通して、現地の生活文化の変容をたどろうというもの。関連イベントとして「片倉もとこの見たサウジアラビア」という演題で「みんぱくゼミナール」(一般向けの講演会)も開かれた。
 その講師の一人に片倉もとこ氏の旦那さんである、元駐イラク大使の片倉邦雄氏がパネリストとして参加されていた。伴侶としての片倉もとこ像の紹介も楽しみではあったが、じつは、イラク大使をされていたちょうどそのときに勃発したイラクのクウェート侵攻から湾岸戦争へと展開してゆく、あの時代のことに言及されるかなと期待をしていた。
 片倉氏の口からは「中東に赴任しますと、ほんとに大きな事件に何度も遭遇します」と述べられたものの、残念ながらそれ以上のことは触れられずじまいであった。「大使館の対応をめぐって当時(イラクのクウェート侵攻時)は批判もたくさん受けました」と言葉を足された程度であった。

 もう30年も前のことだ。覚えておられるだろうか。在クウェート日本大使館の勧告で戦火のクウェートからバグダードに待避してきた日本人200人あまりが空港に着くなり、出迎えた駐イラク大使・片倉氏の眼前で、拱手傍観にして全員がそのままに拉致され、その後、イラクの主要な軍事拠点に「人間の盾」として軟禁されてしまった事件を。しかも間の悪いことに、そもそもクウェート侵攻が勃発したまさにその時、駐イラクの片倉大使も、駐クウェートの黒川剛大使もともに休暇中で任地を離れていた。こうした一連の外交的ポカが明るみに出るにつれ世情は沸騰したのだった。
 片倉邦雄氏による『アラビスト外交官の中東回想録』(明石書店・2005年)という一書には「甘いといわれてもしようがないが」との前置きで、イラク政府への淡い期待があったと記す。その根拠として、一つにイラン・イラク戦争時も継続して最大限の経済技術協力を推進してきた実績、そして、つい数カ月前におしのびで日本を旅行したフセイン大統領夫人一行を手厚くもてなしたこと、そうしたことから日本に対しては特別な配慮あるだろうとの期待があったという。しかし、当時の在京イラク大使の著書には、在クウェートの日本人たちがバグダードへ移送されることになる前から「人質」は既定路線であったしるされており、全くの的外れの期待であったことが今では明らかになっている。
 ということで、この事件が一件落着したのちに出版された活字メディアのいくつかから「あの時代」に何が語られていたのかをすこし振り返ってみようと思う。
 まずは小室直樹『これでも国家と呼べるのか』(クレスト社・1996年)から。
「大使は、普通の人間ではない。一国を代表して送られる大使は、特命(extraordinary)全権(plenipotentiary)大使である」「『休暇中であった』と普通の人でならば言える。が、大使は、普通でない(extraordinary=特命の)人である。休暇であろうが何であろうが、つねに、任務中(on duty)である。休暇をとるかとらぬかの決定自体、任務の中に含まれる」と手厳しい。実際こうした危機意識の欠如はその後、1991年のソ連8月クーデターの時も、駐ソ大使は休暇でモスクワを離れていた。歴史的には日米開戦前夜のワシントンの日本大使館もしかり。飲んだくれてしまって宣戦布告が遅れた。肝腎の時に用を足し得ないのは、日本外務省の伝統ともいえる。
 久家義之『呆然!ニッポン大使館』(徳間文庫・2002年)によると、「『全権』とは名ばかりで、実際には本省の許可なしには勝手に動けない」というのが実情のようだ。著者は医務官として在サウジアラビアの大使館に湾岸戦争時に勤務していた。外務省プロパーでないぶん、外部の人間から見ればなんとも奇妙な役人気質であったり、どうでもいいような、外務省村だけにはびこる狭量なプライドのありようが、全ページに遠慮会釈なく見事にあぶり出されていて、読んでいてほんとにうんざりしてしまうのだけれど、なんとも興味深い。

 そもそもイラクの侵攻に関する事前の独自情報のようなもの、いわゆるインテリジェンスは大使館には存在しないのだろうか。少なくともわれわれ一般人とはちがう情報ルートをもっていそうに思えるし、そのプロフェッショナルな情報ゆえに「全権」を託されているということなんだろうと思うのだが。久家氏も着任当初は大使館ならではの極秘情報というものを予想されていたようである。イラクの侵攻が始まった頃のサウジ大使館の様子をつぎのように記している。
「政務の書記官はテレビのCNNにかじりついて」「総務参事官は現地職員に情報を取ってこいと指示するばかり」で、「諜報活動をしている人物など、だれもいなかった」「大使館はただの役所で、館員たちは日本に帰ればただの事務官にもどるふつうの役人にすぎない」。大使館が情報機関であるなんて幻想にすぎないと述べる。そして誰しもがどこかに「イザとなれば、アメリカが助けてくれるだろうと、心の底では頼りにしていた」と。

 さて、この「人間の盾」事件で、実際に「盾」として120日間イラクに抑留されていた側からの証言の書が最近出版されていたことを知った。当時、住友商事のクウェート駐在員としてかの地に赴任していた池田龍三氏による『大統領(フセイン)の客人』(新潮社・2017年)である。克明なメモをもとにまとめられた当事者の記録である。記述は具体的詳細で、目配りの効いた観察力、冷静な分析力に裏打ちされ、なによりも、その素人離れした筆力で読み物としても完成した作品になっている。
 まず緊急時の大使不在の問題について著者は、「日本国のインテリジェンス機能の限界であり、非難には当たらない」「先を読めていない人に先のことを聞いても答えは出ないということ」と冷めた反応で、過度の期待はない。「中東では三十分先に何が起こるかわからない」という中東ビジネスのベテランの言葉を引きながら、そもそも地政学的リスクの高いところであるからと記す。
 本書の全体を通して意外に感じるのは、外交官も一般日本人もどちらも自らの生命にかかわる「危機」についてある種の楽観が漂っていることだ。さきの久家氏の著作にあったように、いずれアメリカが助けてくれるだろうという期待がある。
 つぎのような興味深いエピソードがあった。同じ収容所に人質となっている英国人は早朝のランニングに余念がない。「おまえは運動しないのか。いざというときに、身体が言うことを聞かないと、困るよ」、「サッチャーは、俺たちがいようといまいと、イラクを攻撃する。その時は自力で逃げるしかない」。人命よりも国益が優先されることを知り抜いている。いざとなれば砂漠を数百キロ走ってでも国境を越えて脱出するのだと真剣に考えているのだった。現に、イラク軍に後ろから銃弾を浴びせられながらもランドクルーザーで土漠を駆け抜けてサウジへたどり着いた英国人や、小さなボートでチグリス・ユーフラテス川を下ってアラビア湾海上の多国籍軍の駆逐艦に救助されたフランス人など、決死の脱出行を成功させた事例もあったという。
 著者も触発されてテニスやらバスケットボールで体力づくりに精を出すのであるが、どこかで「何とかなるサー」の意識は完全にはぬぐえない。
 しかし、単純に危機意識が高ければいいという問題でもないのだった。欧米人の人質の中には精神的に参ってしまい食事もとれなくなって病院に搬送される人もいたが、日本人にはただのひとりも心労で体調を崩す人はいなかったという。「最後は政府が助けてくれる、何とかなるといった、楽観的というか、あいまいな期待感があり、精神がメルトダウンしなかったと思います」。皮肉にも、日本人特有の、人任せのメンタリティーが奏功した。まさに「病は気から」というわけだ。

 著者はこの人質事件での日本政府の対応を4点に整理している。
 一つに政府は現地へ邦人救援機を飛ばさなかった。憲法解釈の問題やら、戦争当事国の米国への政治的配慮といったものが背景にあったかもしれないとする。
 二つ目に、在クウェートの日本人を「嘘をついてまで」バグダードに集めて管理しようとした。
 三つ目に、バグダードの日本大使館員は、人質たちを乗せた、行き先不明のままに走り去っていくバスの追尾を途中で諦めた。
 四つ目は、「人間の盾」になったという事実を日本国内には隠し、報道管制を敷いた。政府の最優先課題は、人質救出にあったのではなく、政府の対応に非難の矛先が向かないようにするところにあったのでは、と記している。
 著者は帰国後、さまざまなニュース番組にテレビ出演を依頼される。そうした機会を捉えて、官民そろっての危機意識の低さを問題提起したかったという。日本からは救援機も飛ばせず、自衛隊は海外で働く日本人の生命を守るための行動を何一つとることもできなかった。日本政府の危機対応の甘さ、対応能力の低さをひっくるめて「日本の安全保障問題」「自衛隊の海外派兵」「憲法改正」について真剣に考えねばならないと。自身の体験談が、そうした議論へのとっかかりとなることを期待した。しかしテレビ側は表層的な政府批判の言質を引き出そうとやっきになるばかりだった。
 そして、著者は言う。 「政府批判することが報道番組の責務であるような、そのような報道姿勢は『くそ食らえ』であった」

 これまた、覚えておられるだろうか。今では様変わりしてしまったが、こういう時代だったのだ。政府批判することが有理であり、〈忖度〉などというような用語は膾炙しておらず、報道機関は第四の権力として、時として「くそ食らえ」の対象になりながらも、それでもそれはそれなりにジャーナリズムの仕事をしていた。お笑い番組だって権力を笑い倒してなんぼの世界だった。昨今の、政府の広報機関と見紛うばかりのテレビ報道を思いながら、なんとも救いようのないうんざり感でいっぱいになる。
 いっぽう官民挙げての危機意識の希薄さ加減は相変わらずのようで、ここんところ炎上中の「日韓問題」に関して内田樹氏がつぎのようなコメントをしていた。
「これほど深刻な外交問題を支持率維持の具として政治利用することができるのは『最後はアメリカが収めてくれる』という政府がぼんやり期待しているからです」(2019.9.11ツイッター)
 アメリカ頼りのほうは、30年の時を経ても何も変わっていないようだ。何も変わっていないが、より始末に負えなくなっているように思えるのは、それをいいことにしてか、夜郎自大な、勇ましい物言いが何の憚りもなく巷間溢れんばかりになっていることだ。時代はずっと劣悪なものになってしまっている。(か)2019.10.01
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