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食と健康を地理からみると 地域・食性・食文化 ■島田彰夫著・農文協・1988年■ 動物としてのヒトを見つめる 衛生学・文化人類学そして生活学へ ■島田彰夫著・農文協・1991年■ 食とからだのエコロジー「食術再再考」■島田彰夫著・農文協・1994年■ |
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生物としてのヒトをまるごと専門に研究する学問はない。「生物学者はヒトを医学の領域であると考え、医学のほうでは『正常な』ヒトについては関心がない」。生物学も医学もヒトは研究対象外のようである。 人文科学、社会科学、自然科学のジャンルをざあーっと見渡しても、「文化や文明」をまとった「人間」は扱われるが、ヒトそのもの、つまり野生のヒト(野生のヒトなんてたぶんいないと思うが)は対象になっていない。 人間は生まれると同時に、社会的・文化的存在として歩みはじめる。家庭や学校でしつけられ、知的教育を与えられ、社会に出ると世間様からさまざまな知恵や情報を授かり、経験を積み上げながら一歩一歩成長していく。ヒトは万物の霊長として位置づけられ、「ヒト」ではなく「人」として扱われてきた。 本書3部作は、人間から「文化的尺度」をそぎ落とし、「生物学的な尺度」でもってヒトを考えていく。ほんらいの動物性そのものを抽出し、ヒトの生息する気候風土を加味して、ヒトのもつ食性やら性生活、健康、社会生活を捉えなおすという内容である。 食品の王様と称される牛乳を否定した見解は説得的だ。私たちのからだは、離乳と同時に、乳糖分解酵素であるラクターゼの分泌は止まる。それ以後いくらミルクを摂取してもカルシウムは吸収されない。乳製品礼賛の栄養学を徹底的に否定する。そもそも明治時代に入ってきた近代栄養学はドイツ流であり、日本の風土に育ったヒトには適さないと裁断する(学校給食の牛乳は文科省と厚労省と業界の癒着か!と勘ぐりたくなるほど)。離乳は文字通り「離乳」であることに、私たちはもっと自覚的であるべきなのかもしれない。 アジア・アフリカの成人は、ほとんどがラクターゼ欠乏症(乳糖不耐性)である。牛乳を飲んでお腹がゴロゴロしたり下痢をしたりする人がいるが、それは「離乳」してしまっているからである。いっぽうヨーロッパ人(白人)は成人しても分泌している割合が高い。彼らが乳製品を食の中心に位置づけていることに合理性はある。人類は赤道付近で誕生したわけであるが、しだいに緯度の高いところ(寒冷と乾燥の地帯)に移動していった。そうした一群がヨーロッパ人である。長い年月をかけて乳糖耐性をじょじょに獲得していったのである。 1876年(明治9)に政府が招聘した医学者エルウィン・ベルツは、人力車の車夫が「粗食」にもかかわらず、1日40キロを走ることに驚いている。米、大麦、ジャガイモ、栗、百合根などの炭水化物だけで、なぜそれほどのがんばりがきくのか、栄養学では説明がつかないと記している。試しに肉類などのタンパク質を車夫に与えたところ、疲労が激しく走れなかったらしい。炭水化物はダイエット志向の現代人には嫌われる栄養素であるが、その分解酵素アミラーゼの分泌は、他の動物に比べて、ヒトは突出して多い。何度も反芻しながら口をもぐもぐさせ、よだれを垂らしているウシの唾液には、ほとんどアミラーゼは含まれないという。ウマにいたってはゼロらしい。それは「ヒトという動物の澱粉要求性がきわめて高いことを示している」。私たちにとって大切なのはデンプンなのだ! 近年の初潮年齢低下の背景を話題にした一章もおもしろい。多くの説明は、食生活が豊かになったことから成長が促進され初潮年齢が下がってきたとされる。著者はそうではないと言う。もし高栄養化が要因であれば、インドや東南アジアなど途上国における少女たちの低い初潮年齢の説明がつかいない。初潮をコントロールする最大のものは「光」である、と著者は言う。日照時間の長い南アジアはもともと初潮年齢は低い。赤道から離れた日本で、自然の日照時間に加えて、人工的な蛍光灯やネオン、テレビなどによってヒトは大量の光を浴びるようになった。光量が決定的に影響しているという説明だ。鶏舎を見よ、ということである。 メタミドホス混入の中国製冷凍ギョーザを11個も食べてしまったという高校生の報道を耳にしたとき、この著作のことを思い出した。他の家族は一口めで異常を感知し、吐き出した。にもかかわらず男の子は11個である。何かがおかしい。生物としての身体性の欠如ではないかと。 本書の一文から引用すると、 「生物学的な尺度と文化的な尺度の矛盾」が「人間のヒト離れ現象」を引き起こしている。 2008年3月13日(か) |
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