神戸新聞の100日 阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い■神戸新聞社著・プレジデント社・1995年■ |
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「今日の神戸の夕刊、薄くない?」 嫁サンの言葉に、はてさて、ええっと、年末だったけ?と、年をとるごとに季節感にうとくなりつつある私は、今日が何月だったか一瞬わからなくなった。元旦号の増ページに向けて年末近くなると、どこの新聞も著しくページ減になるが、私はあれが大嫌いである。年が改まってどかーんとまとめられたって、ありがたくもなんともない。うんざりである。正月早々から新聞ばかり読んでおられるか! 新聞人の方はぜひご一考いただきたい。 いや、そんな話ではなく、8頁立てのペラペラの夕刊紙の話である。ともかく今は年末ではない。となると、阪神タイガースの優勝特集を見込んだ「調整」か? これはありえない。言下に否定できる。 で、題字下に目を移すと「新聞製作システムのトラブルにより京都新聞社の全面的な協力を得て夕刊を発行しました」(07年9月22日)とあった。発行日のところを見ると、版数の印字がない。「一版通し」というやつである。そうだったのか……。 翌日の朝日新聞朝刊は「京都新聞、再び神戸新聞救う」と第一面で報道していた。そう「再び」なのだ。あの震災のおりもそうだった。 1995年1月17日午前5時46分に兵庫県南部を襲った激震で、神戸新聞社本社は潰滅的打撃を受けた。窓ガラスという窓ガラスは砕け散り、天井は崩落し、柱、床、階段、壁には亀裂が走った。ロッカー、机、椅子、電話、ワープロ、テレビ、資料、書類は爆撃を受けたごとく飛び散った。新聞製作のコンピュータシステム(CTS)も動きそうになかった。そもそもシステムを駆動させる6600ボルトを引き込んだ電源室そのものが破壊されてしまっていたのだ。 『神戸新聞の100日』は地震直後から始まる新聞人たちの熱き戦いの記録である。「何としてでも新聞を出す」。新聞発行に向けての執念の記録である。 ちょうど震災1年前に神戸新聞は京都新聞と「緊急事態発生時の新聞発行援助協定」を結んでいた。その協定を発動させ、休刊の危機を乗り越えたのだった。 震災当日の夕刊は、京都新聞で製作した製版フィルムを従業員のナナハンで神戸市西区にある製作センター(印刷工場。ここの被害は軽微であった)へ運ぶ。午後1時前に京都を出発したバイクは寸断された道路に苦しみながら午後6時22分にようやくセンターに到着。フィルムから刷版を焼いて輪転機が回り始めるのが6時35分。27万部の印刷を終了したのが午後8時だった。あの凄惨な日に新聞が発行されたことに驚く。しかし私はこの夕刊(4頁立て)を見ていない。 震災10日後には緊急自社CTSを稼働させる。富士通のPRESS/FXという機種を導入するのだが、システム構築には通常半年は最低でもかかる。それを、機器の手配・調達に3日、移動・搬入に1日、組み立てに2日、最終工程のSE作業が2日。一気に立ち上げてしまったのだ。 「テストは一回。何回もやるのはテストとは言わん。九九・九九九%のテストを千回やっても、一〇〇%にならんやろが。一〇〇%のテストを一回、ええか一回や。一発で決めろ」 「奇跡だった」「奇跡と言うしかないではないか」──。 あの緊迫したドラマから12年。今回のシステムダウンにはどんな事情があったのだろう。 2007年9月23日の神戸新聞ホームページに「製作システム復旧」の記事が掲載された。「同システムを共同開発した日本電気(NEC)とともに復旧に努め」とあった。 ありゃあ、いつ富士通から変わったん? あの修羅場を一緒にくぐってきた同志・富士通SEたちとの熱き友情と感動の物語は……。 12年の歳月をおもう。 ─2007年9月27日(か) |
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