旧著探訪 (15)

 スリランカの悪魔祓い イメージと癒しのコスモロジー ■上田紀行著・徳間書店・1990年■ 
「癒し」という言葉が日常生活のなかでごく当たり前に使われるようになって久しい。エステ、岩盤浴、アロマ、フットマッサージ、アーユルベーダから、温泉地やら南のリゾート地など、「癒し」という言葉が冠されてある種のイメージを醸し出している。現代人が抱え込むストレスを「癒す」。肉体的な病気を癒すというよりも、現代社会を生きていくなかで、避けがたく蓄積される精神的な疲労を癒すといった使われ方である。そもそも「癒し」がこういった語法をもつようになったのは、著者・上田紀行氏による「功績」であるだろう。
 本書はその「癒し」発祥の書である。この本で、「癒し」は生まれた。
 しかし、上田氏が当初提示した「癒し」から、その使われ方はずいぶんと変容してしまったようである。18年ぶりに再読して気づかされた。
「悪魔祓いで病を治す」という前近代的(スリランカでもそう捉えられている。コロンボやキャンディなどの都会では言下に否定される)な治療で、患者がみるみるうちに元気になる。その現代医学では証明できない現象を著者は探っていく。そもそも病は悪魔の仕業なのか。「悪魔」を祓うとはどういうことなのか──。
 スリランカの悪魔祓いは夜を徹して行なわれる儀礼だ。屋外に設置した祭壇の前に患者を座らせ、悪魔に供え物をし、呪術師が呪文を唱え、太鼓をたたき、奇声を発しながら踊る。患者の体内から悪魔に去っていただく儀式である。その様子を村人たちが三々五々見物がてら集まってくる。夜が更けてくると、悪魔役と呪術師の掛け合い漫才が始まり、寸劇あり、替え歌ありで、まるで村祭りの様相を呈してくる。患者も村人も一体となって笑いの渦に包まれる……。
「悪魔祓い」という言葉が持つおどろおどろしいイメージとはずいぶん違ったものだ。
 村人たちは言う。「病人は、孤独な人である。孤独だから病になる」。疎外感が病因である、と。だから悪魔祓いの儀礼を通して、患者を再びみんなの輪の中に取り戻してやる。そうすることで病気が治るのだ。
 著者は言う。おそらく患者の病状は、現代医学でいう心身症や神経症にあたるだろう。われわれの社会では心身症やら神経症と診断されると、その人を特別視し、周りの人は恐れて遠ざかる。患者には人の温かさが必要なのにまったく逆の処方に放り込んでしまっている。病んでいるのは患者個人、あるいは患者の体の一部に原因があると考えられるが、じつは病んでいるのは、患者とその周りを取り巻く環境との関係なのだ、と。
 著者は、アメリカで開発されたサイモント療法という応用心理学の技法を用いたイメージ療法やら、プラシーボ効果、右脳開発などのさまざまな現代科学における手法と、悪魔祓いのメカニズムとの類似を指摘しながらも、決定的に違う点を強調する。
 心理学・精神医学からすれば、悪魔祓いは、イメージによる右脳の活性化、潜在能力の開発、脳内快楽ホルモンの分泌促進などと合理的に説明できよう。しかしもうひとつ、悪魔祓いでは忘れてはならない要素がある。それは外部との「関係性」だ。病因を、患者個人に内在するものとするのではなく、家族であったり、近隣の村人たちであったり、その患者を取り巻く社会関係に求める。その関係の修復が治療となる。「つながりの感覚─ネットワーク感覚」の再構築である。
 となれば、巷間もてはやされている「癒し」とはずいぶん違う。それはあくまで個人単位である。病は一個人の閉塞した世界に巣くうと考えられる。だから、治療は個室で施される。閉鎖系の処方だ。
 悪魔祓いが扱う患者はそうではない。いわば、急性アノミーに襲われた存在として捉えられる。アノミーは「無規範」と訳されることが多いが、社会科学者・小室直樹氏による「無連帯」という訳がここではぴったりだ。まさに「無連帯」によって病になり、「連帯」を獲得することで、患者は癒されていく。だからこそ、その治療は屋外で、多くの人に囲まれながら笑いのなかで、施されなければならない。社会病理学的な開放系の処方である。
 2008年8月20日(か)
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