近著探訪(48)

 イスラムが効く!         ■内藤正典/中田 考 著・ミシマ社・2019年■
イスラムが効く!
「ハイ、売名です。あなたも…」
「週刊朝日」(2019年3月8日号)の記事から引用された朝日新聞掲載の鷲田清一「折々のことば」(19年3月15日)。歌手で俳優の杉良太郎さんが発したひと言が紹介されていた。
 東北の被災地でカレーの炊き出しを手伝っていた杉さんにリポーターがマイクをつきだして訊ねた。
「それって売名ですか」
 答えて曰く、「ハイ、売名です。あなたも売名したら? みんな助かるよ」と。
 人の行為をさして「売名」といってみたり、「偽善」といってみたり、そうした揶揄がつい口からこぼれてしまう年頃ってあるよなあと記事を読みながら若かりし頃の自分を思い出した。なんらかの打算があるように見えるふるまいや言動に過敏に反応してしまうのは若者特有の潔癖症かもしれない。「この偽善者がっ!」てなことを言って難癖をつけたり、意地悪な気持ちで冷たい視線を送る。ああ、私もそんなことを臆面もなくいいふらしていた時代があった。ここに登場したレポーターもうら若き女性なのか、青臭さを漂わせた青年風情だったのだろうか。
 老境に入った今の年頃になると、売名であろうが偽善であろうが、まったく頓着しなくなってしまった。困っている人のためになされる活動は、その動機を詮索することなく、ストレートに賞賛されるべきことだと思うからである。世の中に「善きこと」が増えたのだから慶賀の至りなのだ。あるいはこういう言い方もできる。偽善すらできなくなってしまった自分に何が言えよう……。
 ところで、杉良太郎氏の名誉のために急いでしるしておくけれど、この炊き出し行為が売名であるとか偽善であるとかといった前提でこの一文のつかみにもってきたわけじゃない。週刊朝日の当該記事「もう一つの自分史」を読むと、知る人ぞ知る慈善事業家としての、杉氏の“実像”が紹介されている。「私財を投じてベトナムの孤児の里親となり、中国残留孤児を支援し、被災地に駆けつける」。招待された宮中晩餐会でベトナムの要人のなかから杉氏の姿を目にされた当時の皇后様からは「筋金入りのお方ね」と声をかけられた……。生粋の福祉活動家なのである。念のため。
 さて、こうした慈善的なふるまいを他者から屈折した評価にさらされることなく、そのままに“善行”として認知される社会というのがイスラムかもしれない。イスラム研究者の内藤正典・中田考ご両人による対談集『イスラムが効く!』を読んでいてそう思い至ったのである。 「善いことをすると天国に入れるし悪いことをすると地獄に落ちるというのが基本」(中田氏)という明快な教え。最終的に神の前にひとり立って、現世での善悪の割合を査定される。天国か、地獄か。最後の審判である。一対一だから人のせいにはできない。すべてが自己責任において完結する。
 たとえば飲んじゃいけないお酒を飲んでしまったとき、今後は「飲まないようにしますと誓ったからといって、善行にはならない。(略)弱い人を助けるという、神が定めている別の善行によって埋め合わせ」(内藤氏)を心がける。
 クルアーンは神に対しての誓言に違背したとき、次のように述べている。
「汝らの家人を養う通常の食事で10人の貧者を養え、またはこれに衣類を支給し、あるいは奴隷を1人解放せよ」といった具合である。懺悔やら後悔に力点があるのではなく、「今度はよいことをする」という、具体的で前向きな社会性のある行為がまず求められる。
 ともあれ、善行の積み重ねが天国への道を準備してくれるということが共通の了解事項であるから、そこに売名やら偽善といった見方がわき上がってくることはない。そもそも売名やら偽善は他者からの目を意識したものであり、ムスリム個々人にとっては何の関係もないことだ。個人が神と一対一で向き合う。そこに他者が入り込む余地はない。「人の言うことは気にしなくてもいい。(略)人がなんと言おうとかまわない。それが基本の基本です」(内藤氏)。
 善行の目的はわが身の救済であり、極端に言えば他者のことなんて微塵も考えていないのかもしれない。ひたすら神からの覚えをよくするために善行を尽くすのみである。それはこうもいえる。利他的利己主義。つまり自己の救済を目的とした、利己的ともいえる修行(善行)が、結果的に公の福利を増進することになる、と。なんだかアダム・スミスが唱えた市場原理のようにも見えてくる。個々の、好き勝手な欲望の追求の先に「神の見えざる手」に導かれて、社会全体の幸福がもたらされる。「なんとしても天国に行きたい」という個人の欲望が社会の善を積み増ししてくれるのだ。なんてよくできた社会システムなのだろう。もちろんこのシステムが作動する前提には「来世」への信仰があるわけで、ムスリムは100%来世を確信している。
(か)2019年5月21日
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