正義の教室 善く生きるための哲学入門 ■飲茶 著・ダイヤモンド社・2019年■ |
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マイケル・サンデル教授『これからの「正義」の話をしよう』を思い出す。サンデル教授が舞台の上から聴衆を相手にさまざまなエピソードを題材にして「正義について」を公開討論していく。テレビで放映されていた。……であったが、結局、私は何度か目にはしたもののスルーしてしまって、いったい何が語られていたのかをほとんど知ることもなく、今に至ってしまった。ずいぶん時間がたってしまったが、このたび飲茶さんの新刊をきっかけに当時おおいに流行ったこの正義論を遅ればせながら学んだ。 おそらくどこかで耳にされているだろう、「トロッコ問題」というのが、正義論を起動させるにあたってのイントロ的なエピソードになっている。 いわく、暴走するトロッコの先に5人がいて、このまま突っ込んでしまうと5人全員が死んでしまう。しかしあなたが目の前にある分岐器のレバーで路線を切り替えれば5人の命は助かる。が、切り替えられた路線の先にいる1人が今度は犠牲となってしまう。5人の命と、本来無関係であった1人の命。さて、あなたはどうするか……? たとえば、医師が圧倒的に不足した大災害の現場では、助かる見込みが高い負傷者から処置を優先してゆくトリアージという行為がある。こうした手順を踏んでいくことで結果的に全体の幸福度を高めることになる。「最大多数の最大幸福」というやつある。つまりはなるべく大勢の人間について、その幸福度の総量が最大になるように行動することが「正義」であるとする功利主義的な考え方だ。であれば、トロッコ問題では、5人の命と1人の命を比較考量すれば、1人の犠牲ですむのであればとレバーを操作することが正しいふるまいなのか……!? サンデル教授の本(早川書房・2011年)の目次構成をながめると、本書『正義の教室』とほぼ同じようなアプローチになっている。「最大多数の最大幸福」をめざすことに重きを置く功利主義に依拠して「正義」を考えていくことから始まって、他人に危害を加えない限り個人の自由を極限まで尊重しようとする自由主義的な立ち位置から「正義」のあり方を考察し、さらには超越的な存在(神)であったりイデアのようなものを措定し、そこから善悪を直感することで「正義」を確定しようとする。そうした一連の流れが「正義論」を進めるにあたっての定石のようである。 本書は、これまでの著者の哲学概説書とはちがって、学園モノの小説仕立てになっている。功利主義、自由主義、直観主義それぞれの立場の役回りを与えられた女子高生3人と、生徒会長の僕、そして倫理担当の教師が対話を繰り返しながら議論を深めてゆく。物語の流れに身を任せながら、ギリシャ哲学から始まって、現代のポスト構造主義までの哲学をも俯瞰し、これまでの哲学者や思想家が「善・正義」をどう捉えてきたか、その流れをざっくりと学べるようにもなっている。このあたりの、わかりやすく哲学史を読み解いてゆく手際の良さは、この著者の圧倒的な力量であり魅力である。 さて、本書冒頭にはもう一つの「トロッコ問題」が登場する。非番の消防士が、保育園に預けている5歳の娘が発熱したので早めにお迎えに来るようにと連絡を受ける。向かった先で目にしたのは燃えさかっている保育園であった。かれは、消防士として、装備もないまま本能的に炎の中に飛び込んだ。揺らめく炎が不気味な生き物のように這い回っている廊下を突き進む。その突き当たりのT字路を右に行けば30人ほどの幼児たちがいる保育室。左に行けば救護室。発熱したわが娘は救護室に寝かされている。かれにとっては何度も送り迎えしたことのある、勝手知ったる保育園である。さて、右へ曲がって大勢の子どもたちの救援に向かうべきなのか、左へ曲がってわが子を助けるのか? 消防士として、父親として、人として、どうふるまうべきなのか。何が正しいのか? 何が正義なのか? 普遍的な正義は存在するのか? はて。さて。……その結論はといえば、じつは……ない。身も蓋もないけれど、正義に正解はない、ということだった。 「人間は完全な正義を直感できないし、知りようもない」。ただ「『正しくありたい』と願い、自分の正しさに不安を思いながらも『善いこと』を目指して生きていくこと」(295頁)、それこそが「人間にとって唯一可能な正義」のありようであったのだ。 消防士がもがき苦しんだすえに選び取った結論。右であっても左であっても、そのどちらかが正解というわけではない。その事後に繰り返し襲ってくる不安と悔悟。消防士の苦悩の中に正義がもたらされるのだった。「どんな『行動』が正義と思えるかではなく、どんな『人間』が正義だと思えるか」(294頁) 岡田斗司夫氏がサンデル教授の正義論を取り上げたWEB記事(「道徳の時間」)を目にした。そこには、「で、サンデル教授は何が正義だと言ってるの?」なんて、友達に聞いたりしてません?とあった。 いやはや、本書を読む前の私だ! 「正義学」ではなく「正義道」であり、「正義や道徳、正しさとは考えたり学んだりするものじゃ」なくて、「それは『修行する』もの」とあった。 正義論は、実践哲学であり、生き方そのものなのであった。 2019.8.1(か) |
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