近著探訪(47)

そろそろ左派は〈経済〉を語ろう ■ブレディみかこ/松尾匡/北田暁大・著・亜紀書房・2018年■
そろそろ左派は〈経済〉を語ろう
 行政文書の改竄、隠蔽、廃棄といった、行政府における前代未聞の荒っぽいふるまいが暴かれ、国会の場における嘘や強弁、詭弁、ごまかし、記憶喪失……、これまた官僚や政治家たちの厚顔無恥な言動の数々が繰り返される。「モリカケ」問題に端を発した猿芝居で民主主義の存立は今や風前の灯火だ。政権がぶっ飛んでしまうようなスキャンダラスなことが日々噴出して、新聞の第一面を賑やかしているのだけれど、世論調査での内閣支持率は下限30%をキープしたままで底打ちしたようにも見える。
 不支持の理由に「首相の人柄が信用できない」という項目があって、不支持者のうち約7割の人がこの項目にチェックをつけている。政権支持を問う調査に政策ではなく「首相の人柄」を云々するような選択肢が、過去の調査においても問われたことがあったのだろうか。アベさんだからこその項目なのか。ともあれ、圧倒的多数から「人柄が信用できない」と烙印を押されてしまうなんてサイテーの人間ではないか。にもかかわらず、ぶっ飛ぶこともなく、野党勢力よりも支持率はまだまだ高いのである。
 なぜなのか。本書を読んでなんとなく想像がついてきたのだけれど、アベノミクスと称される第一と第二の矢がめざしてきた「経済政策」を多数が好感していることにあるように思う。とくに若い世代は、相対的な「効果」を肌で実感しているのかもしれない。それを反映してか、若年層においての支持率は比較的高い。
 第一の矢は、金融緩和(低金利政策)で、お金をどんどん市中に流していって、民間の投資意欲を刺激し、さらには第二の矢である財政出動で、政府がお金を積極的に、かつ大規模に使っていく。需要不足に起因する現下のデフレ不況の克服策として、ケインズ経済学が導くまさに王道の対処である。欧州などでは左派が訴える反緊縮的な政策パッケージと同じなのであるが、日本では右派政権が主導する。
 本書の著者のひとり、ブレディみかこ氏の「低金利とばらまきを批判するのって普通は(資産が目減りすることを嫌う)富裕層で、貧乏人は政府はもっと俺らのためにお金をばらまけよってのが一般的」(166頁)という発言にあるように、ほんらい右派が緊縮的で、リベラル・左派が反緊縮的。これがスタンダードなのに、なぜか日本ではねじれていて、リベラル・左派と称される人たちは、「お金をばらまく」といった反緊縮的な政策を、(道徳的に?)批判しがちである。借金を増やすだけで将来の世代にツケをまわすことになる、というわけだ。財政規律を重視して、歳出を削減し、基礎的財政収支を黒字化する方向に努力していかなくてはいけないと考える。一昔前に話題になった「事業仕分け」(懐かしい!)っていうのもその流れだった。緊縮財政の信奉者である。
 いや、本書によれば、昨今の左派・リベラルは、「経済」を語ることさえやめてしまったようだ。「脱・経済成長論」を唱導し、「成熟社会」(もはや経済成長の伸び代がないんだからという“成熟”)における新しい生き方とやらを提唱し、「アイデンティティ・ポリティクスばかりに目を向けるようになってしまった」(228頁)。この傾向は「労働者階級」という言葉が使われなくなっていき、「市民」という表現が好まれるようになってきたことと軌を一にしている。そのような状況にあって「アイデンティティ的にはマジョリティなのに、経済的な豊かさから疎外されている人びとに対して、その窮状をうまくすくいとる言葉がどんどんなくなっていってしまった」(230頁)。階級問題やら貧困問題が日本にも現実に存在し、相対的貧困率という指標が示すようにあきらかに経済状況は深刻化している。にもかかわらず、言葉がないから「貧困」やら「格差」の問題が可視化されえない。
 だからこそ、本書のタイトルにある「そろそろ左派は〈経済〉を語ろう」というわけなのだ。左派が左派であるために、リベラルがリベラルであるために、経済(経世済民)を正面から考えていこうよ、と主張するのである。ほんらい左派・リベラルが主導するべき経済政策を、アベさんなんかに乗っ取られてしまって、どうなのよ!ということなのだ。そして〈経済〉をつきつめれば、必ずや、今以上に過激な金融緩和と政府支出のさらなる拡大へと、そして消費税増税路線からの決別へと、向かうはず。それが現下の日本におけるマクロ経済学が導く解なのだから。
2018.6.13(か)
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