イスラームから見た「世界史」 ■タミム・アンサーリー著・小沢千重子訳・紀伊國屋書店・2011年■ |
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昨年末(2016年)の浮かれまくった(…のは大手マスコミだけであるが)日ロ首脳会談での北方領土交渉。終わってみれば案の定なんの進展もなかった。この首脳会談を前にあたかも露払いのごとく、NHK・BS放送で「ゴルバチョフが語る日ソ・日ロ交渉秘話」と題するドキュメンタリー番組が放送された。海部俊樹首相とゴルバチョフ大統領、その後の橋本龍太郎首相とエリツィン大統領とのあいだでもたれた数度にわたる首脳会談を通して、これまでの北方領土返還交渉を振り返る内容である。番組を通して元駐ロシア大使の丹波實氏が現場からの証言と自身の見解を述べておられた。 番組の最終部分で丹波氏が発したことばが印象的であった。「日本が追求しているのは歴史の正義である」と。丹波氏は番組収録後、ほどなくして亡くなられたのでダイイング・メッセージのようにも聞こえ、悲壮な響きを漂わせていた。こうした発言から気骨ある外交官との呼び声が高いようである。 しかし、わたしはネガティブな気持ちになってしまった。「歴史の正義」。そんなものがはたして客観的・一義的にあるのだろうか、と。もしあったとして、交渉事に「正義」を前提に合意を形成できると考える外交センスに、そりゃあ無理だろっ!と突っ込みを入れたくなってしまったのだ。「正義」なんて、立場が違えば揺れ動くもの。だからこそ歴史の叙述・検証はむずかしいし、複眼的な視座が求められる。 そこで今回取り上げたいのは、『イスラームから見た「世界史」』である。私たち日本人にとってあまり馴染みのないイスラーム、しかもおおむね西洋経由でしか見てこなかったイスラーム。このイスラームの歴史をイスラームの立場から読み解く内容だ。 著者はタミム・アンサーリーというアフガニスタン出身の米国在住の作家。アンサーリーという名前はアラビア語の「アンサール」に由来するのだそうだ。「援助する人々」の意。マッカからマディーナへ移住(ヒジュラ)してきた、預言者ムハンマドとその信徒たちを受け入れ援助してきた人たちのこと。その一族をルーツにもつ。といっても厳格なムスリムではなく、世俗的なムスリムである。 文章がとても素晴らしい。古代(イスラーム以前)から現代まで、700頁近い長尺モノながら、興味深いエピソードを縦横無尽に挿入しながら飽きさせない。歴史だけでなく、イスラーム文化や哲学、思想、産業、科学などなど、わかりやすく解説してくれる。おそらく日本語訳もこなれているのだろう。わたしは数年に一回読み返してきた。都合3回。記憶力が極端に悪いので毎回初見のように楽しめる。とほほ、ではある。 これまで私たちが学んできた歴史は、世界を西洋史と東洋史の二つに区分して事足れりとしてきたし、いまもその風潮がたぶんに残っている。かつて梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫・1974年)で旧世界の両端に位置する西ヨーロッパと極東の日本を「第一地域」と呼び、その両者の真ん中、東北から西南に横断する巨大な乾燥地帯を「第二地域」とし、それを「中洋」と呼んだ。具体的には中国世界、インド世界、ロシア世界、地中海・イスラーム世界の4つを想定している。 「中洋」といわれてもピンとこない。関係しそうな出版物をネット上で検索すると、日本経済新聞社の『中洋の商人たち』(1982年)という本がヒットしたくらい。ほとんどこの「中洋」という用語は人口に膾炙せずじまいだった。結局、中洋へのまなざしを欠いたままの世界史しかもてずにいる。このことは今まさに世界で起こっていることを読み解くにあたって決定的に不用意なことであるだろう。 しかし、これは私たち日本人にかぎったことではなさそうだ。本書でも言及されている米国の歴史学者フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』。そこで主張されているのは「ソ連の崩壊は冷戦の終わりのみならず歴史の終わりを画したとする仮説」である。西側の価値観である民主主義・資本主義が最終的に勝利したことを喧伝し、歴史は終わったと高らかに宣言したのだった。 ところがどっこい──。 「歴史が終わりに近づきつつあるだって? とんでもない! これら急進主義者から見るところでは、歴史は今まさに面白くなってきたところなのだ」(626頁) そう、歴史は終わってなんかいない。2001年の9.11以降、歴史は再び激しく動き出した。その行く末を見極めるためにも「中洋へ/から」の視座をおさえておきたい。私たちの「正義」を語る前に。2017.2.18(か) |
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