近著探訪(43)

 浄土真宗とは何か 親鸞の教えとその系譜   ■小山聡子 著・中公新書・2017年■
浄土真宗とは何か
 たとえば。「大手百貨店で進む“他力本願” 集客力の異業種テナント続々」(SankeiBiz、2016.12.2)というニュース。
「他力本願」という用語をインターネットで検索した結果、リストアップされた記事群のなかの一つだ。売り上げ不振にあえぐ百貨店がニトリやポケモンセンターなどの異業種のテナントを誘致し顧客層の拡大に動き始めたという内容である。収益改善が喫緊の課題である百貨店が、集客力のある異業種を店子に引っ張ってきて手っ取り早くそれに頼ろうという戦略だ。自力による打開策を持ち得ず、「テナント頼りの人任せ」で窮状をしのごうとする百貨店のこの「他力本願」には、どちらかといえば否定的評価の意味合いがつきまとう。
 こうしたネガティブな語法での「他力本願」が記事となって流れると、すかさず真宗系の寺院から「このような意味で“他力本願”という言葉を使用するのは控えていただきたい」との電話が「きまってあるのよね」と以前新聞社勤めの人が言っていた。
 浄土真宗でいう「他力」の「他」は阿弥陀仏(如来)のこと。阿弥陀仏の本願(一切衆生が救われない限り、私は決して悟りを開くまい、と阿弥陀仏が法蔵菩薩時代に立てた誓願)にすべてをゆだねて「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依しますの意)の念仏を唱えさえすれば、阿弥陀仏の導きによって救われる(極楽往生)とする。この「すべてをゆだねる」が他力の肝心要。厳しい修行や戒律、世俗の便宜などを受け入れて「自力」行為でなんとかしようと考えるのは、執着の心ありとして否定されるべきもの。かの有名な悪人正機説も、悪事を働いたほうが救われるというのではもちろんなく、善人は積み上げてきた善事に慢心し、阿弥陀仏にすがるという他力の心に欠けるから、ということだ。念仏を唱えるだけの「易行」といわれるゆえんであるが、じつはこれほどに難しいことはない。本書『浄土真宗とは何か』には次のような下りがあった。
 親鸞が高熱で朦朧となったとき、臥しながら思わず経典読誦してしまったことを現世利益のための自力行為だったと反省する。「南無阿弥陀仏の名号のほかに何の不足があってわざわざ経典を読誦しようとしたのか」と悔いるのである。つまり病気治療を求めることは自力行為であって許されないことなのだった。お経をあげたり、薬を飲んだり、医者に頼ったりすることは執着の心。それは「弥陀の本願」に疑念を差し挟むことになる。ただただ阿弥陀如来にすべてをゆだねる。こうした他力を強調して「絶対他力」「純粋他力」と呼んでいる。
 これはなかなかできることじゃない。絶対ムリっていってしまいたいくらい。たんなる「人任せ」というような、そんな中途半端で悠長な語法ではとてもじゃないが畏れおおいことであった。親鸞にしてその境地を獲得するのに苦悩していたのだった。
 当時、極楽往生する際には作法があった。源信がまとめた『往生要集』をもとにさまざまな臨終行儀が重要視されていた時代である。しかし親鸞は当然、そうした作法は自力の行為として否定していた。だから親鸞自身は臨終行儀とは無縁に亡くなったとある。しかし、本書によれば、臨終行儀不要の、絶対他力の教えは親鸞にもっとも近しい縁者にも受け入れられないものであったようだ。親鸞の妻、恵信尼は極楽往生を願って五輪塔を建立しようとしたり、源信らが死の直前に浄衣(じょうえ)を身につけたことにならって死装束を準備したりしている。それも屈託なくそう振る舞っている。親鸞の絶対他力なんてどこ吹く風といった様子である。それが当世風であった。娘の覚信尼にしても、母恵信尼を喜ばせるために死装束用に晴れ着をせっせと送ったり、また臨終行儀をせずに死んでいった親鸞を心の底では極楽往生できなかったのではないかと不安に思っている。親鸞の近くに寄り添い続けた信心深き人たちも、この絶対他力はことほどさように困難な道だったようだ。
 親鸞の教えの大前提には「末法に生きる者は自力で悟りには至れない凡夫であることをまずは深く自覚する必要」にあった。自力救済の無効を宣言したわけだ。五木寛之氏(『生かされる命をみつめて』東京書籍・2011年)は、他力を「我が計らいにあらず」と表現し、「おのずからしからしむる力」によって真実はあらわれてくるものだ、と。これを自然法爾(じねんほうに)というそうだ。
 イスラーム風にいえば「インシャーアッラー(神がお望みならば)」である。
 なんだか似ているような気もする。じっさい、イスラームと真宗の近似に言及した論考は珍しくない(たとえば、狐野利久「コーランの思想と親鸞の思想との対比」『比較文化入門』所収、北星堂書店、1995年)。
 イスラームのいう神への絶対服従、真宗のいう阿弥陀如来への絶対帰依。同じように見えるが、ベクトルの向きがすこし違うようにも感じる。イスラームでは神からの命令・推奨があってそれに服従・努力していく方向性。しかもその行為が最終的には神によって査定される。いっぽう真宗には従うべき命令があるわけでもなく、守るべき戒律があるわけでもない。従うだの守るだの行為は自力ゆえ避けねばならない。自力への執着を否定し尽した先にある自己投棄の方向性といったらいいのだろうか。
 イスラーム学者中田考氏のツイッター(2012.3.24)にこんなのがあった。
「私はイスラーム学の古典文献学者だが、イスラームの法思想を盛る器として「末法」を用い、アッラーの御名を唱える者の救済のハディースに焦点を充てるにあたって、「阿弥陀仏の本願」の発想を借りたことは、私が日本に産み落とされ、日本人として教育を受けた意味なのだろう」
(か)2017.4.8
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