近著探訪(41)

 これからのマルクス経済学入門  
■松尾 匡 著・橋本貴彦・著 筑摩書房・2016年■
これからのマルクス経済学入門
「こんにち蔓延しているのは、正真正銘の貧困であり、正真正銘の搾取なのです」(13-14頁)。著者のひとり、松尾匡氏は、長期不況に苦しむ日本において「生存それ自体にかかわる生身の個人の蹂躙」がこれほどまでに激しく進行しているにもかかわらず、「一人ひとりの生身の有権者の利害から遊離したところで、「安保」だの「財政再建」だのと、宙に浮いた天下国家論を振り回す、悪しき作法がまかり通るようになった」と述べ、「ズブズブの観念論」(136-137頁)に堕してしまっていると憤る。「緊縮財政やら、通貨価値の維持」といった社会的観念、言い換えれば「疎外」が、医療や教育をまともに受けられなくなっている人々を大量に生み出している。最近流布している「物より心」といった一見、口当たりのいい言説もまた、抑圧をもたらす元凶(疎外)だ。「いま必要なのは、物質的な豊かさを切実に欲する大衆の心に響く資本主義批判の分析であり、解放の展望なのです」と。
 その「解放の展望」へと導く理論として、「階級」「疎外」「物象化」「唯物史観」「労働価値説」「搾取」などの、マルクスが提示した基礎的概念(それらは歴史上一度は無用のものとして葬り去られたものであるが)を分析ツールに、「物質的な豊かさの絶対的な欠乏に苦しむ」人々があっという間に増えてしまった今の日本に「真に威力を発揮する」通用性をもった経済理論として復活させる。それは「食わせてなんぼ」を主題とする、生身の身体感覚から発想していくこと(唯物論)の大切さを説くものであり、疎外のない世界への展望である──。
 じつは、ヘンな読み方になってしまうのだけれど、
「資本主義とイスラーム」との親和性の無さを「疎外」「物象化」といった、マルクスの用語で読み解けるんじゃないか。本書を読みながら唐突にそんな思いが浮かんできた。
 ヨーロッパが産業革命を迎えるまでは、中東イスラーム世界はヨーロッパよりずーっと文明的に進んでいた。商業も盛んで社会は豊かであった。なのに、なぜ資本主義がそこから生まれなかったのか──。預言者ムハンマドは商人であったし、『クルアーン』にいたっては「約定(神との契約)」だの「貸し付け(善を積むこと)」「稼ぎ(現世での行為)」などといった商人言葉が頻出する。商行為とイスラームとの親和性は高そうである。しかも、イスラーム法が貫徹する社会の有り様からは「契約」の概念や「法の支配」も確立していたであろう。絶対神アッラーと人間のあいだの厳格な主従関係からは、人間相互の平等意識も醸成されていた。このように資本主義が成立しやすい、さまざまな条件が整っていたように思えるのだが、しかし、なぜか、今日見られるような「親和性の無さ」、もっといえば敵対的ともいえそうな関係に居着いてしまっている。社会科学者の小室直樹氏(『日本人のためのイスラム原論』集英社・2002)は、マックス・ウェーバーの理論を援用して、その原因を行動的禁欲への「エトスの変換」が構造的に排除されていることにあると説く。クルアーンが最終啓示とされ、ムスリムの行動規範は何百年たとうと変わりようがない。そこから「資本主義の精神」が出現することなど金輪際ありえない、と断言している(408頁)。
 マックス・ウェーバーはその著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においてキリスト教を取り上げ、以後、ユダヤ教やヒンドゥー教、仏教、儒教、道教などでを比較宗教学的に「世界宗教と経済倫理」という視点から論考を進めてきた。その社会科学界の巨人がイスラームに手をつける前に世を去ってしまったことから、こうした「イスラーム社会の反資本主義性の不思議」はしばしば取り上げられるテーマになっているようである。
 大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 イスラーム篇』(講談社・2015)もそんな一冊だ。本書で言及されている林智信氏の論考(「イスラームの倫理と反資本主義の精神」『思想』2005年6月号所収)に依拠して、イスラームにおける「法人格の否定」に反資本主義性をみる。たしかに法人概念がなければ、資本主義は駆動しまい。なぜ法人が認められないのか。それは法人の持つ永続性という時間観念への抵抗と説明されている。イスラームでは神が一瞬ごとにこの世界の創造を繰り返しているとされる(大澤真幸「資本主義の〈その先〉に 第6回・WEBちくま」では仏教の「刹那滅」を連想させる、と記している)。だから時間軸を有するものはこの世に存在しないし、そしてもちろん、そんなものを人間がつくりだすなんてことは絶対にできない。私たちの命だって神によって一瞬に消されてはまた一瞬に創造され、といったことを繰り返している。だから、現世での因果律は否定され、すべてがインシャーッラー(神がお望みならば)なのである。そうした説明で法人否定の思想が述べられているのだが、『一神教と国家』(集英社新書・2014)でイスラーム法学者・中田考氏は「イスラームにとって法人概念が最大の敵、最大の偶像」(186頁)と述べて、「偶像化」の否定にその根拠を説いている。イスラームが偶像化を徹底して排除するのはおなじみだが、その考え方は私たちが想像する以上のもので、たとえば「国家」や「お金」など、人間がつくり出す物であり観念はおおかた偶像として忌避される。イスラームの根底に流れているのは「生身の身体感覚」を大切にする思想である。「生身のわたし」が常に神と一対一で対峙することが求められるのだった。そのエトスが小室氏の指摘する不変の行動規範ということであろう。
 さて、この偶像化をマルクスのいう「疎外」「物象化」と読み替えることで、イスラームのあり方とマルクスの疎外論が部分的に重なり合うように思えたのだった。偶像化を徹底して排除してきたイスラームの流儀(エトス)によって、疎外とはもっとも縁遠い社会を形成することができた!? いやいや、この理屈は、フォイエルバッハ由来の疎外論からすれば、神の存在そのものが究極の疎外となるので、言下に否定されてしまうもの……。ではあるが、資本主義化しなかったイスラーム社会のあり方から、資本主義が行き着くところまで行き着いた結果、個人の「本質」のほとんどの領域が疎外されてしまった私たちの有り様になんらかの処方箋を与えてくれそうには思えるのだ。(か)2016.5.29
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