近著探訪(40)

 自由のジレンマを解く
グローバル時代に守るべき価値とは何か ■松尾 匡 著・PHP新書・2016年■
 認知症を患った91歳(当時)の男性が徘徊中、JR東海の列車にはねられて死亡した事故で、JR側は電車の遅延損害金として約720万円をその男性の遺族に求めていたが、最高裁は「家族に賠償責任はない」という判決を下した(2016.3.1)。
 民法714条の「責任無能力者を監督する義務」がJR側の訴訟の根拠となっているらしい。責任能力のない者が第三者に加えた危害に対しては、その法定監督義務者が賠償責任を負うというもの。男性家族の妻91歳(当時85歳・要介護1)と、仕事で別居している長男65歳がその法定監督義務者に当たるかどうかが争われた。かれらに「監督義務」を求めるのは、ふつうに考えてやはり酷なことであったろう。この判決にはおおかたの人が賛同したと思う。
 遺族の長男が判決後、インタビューでつぎのように答えていた。「一時は外に出られないように門や扉を施錠したこともあったが、乗り越えようとしたり揺すって外そうとしたりしたので、家族で相談してやめた」「面倒を恐れて何かを奪うのではなく、なるべくおやじらしく過ごさせてやりたかった」(朝日新聞、2016.3.22)
 ふだんであれば読み過ごしてしまったであろう、この男性のひと言、「面倒を恐れて何かを奪うのではなく」という下りに激しく心が揺り動かされたのは、ちょうど本書を読んでいたからにちがいがない。つぎの一節が共振する。
「子どもであろうが、認知症の高齢者であろうが、知的障がい者の人であろうが、それどころか意識のない状態で生きている人であろうが、すべて個人として尊厳が守られ、当人の快・苦痛に基づく選択は尊重しなければならないことになります」(271頁)

 さて、本書は、リバタリアン的立場をとことん追求していくことで、個人にとっての自由を確保・保証する道筋を展望しようとするものである。
 えっ、なんと、リバタリアンとな!?「リバタリアン」という用語を耳にすると、非情な個人主義、弱肉強食、利己的なふるまいなどなど、ネガティブな印象を私などはもってしまうのであるが、著者は今後もっともふさわしい思想として、「リバタリアン」を提唱するのだ。
 固定的な人間関係から流動的な人間関係(身内集団原理から開放個人主義原理)へと世界の仕組みが移行しつつある現在、この流れを是とし、この方向をさらに進めていくことに価値を認めていこうとすれば、著者は個人の自由を極限まで尊重するリバタリアン的考えを推し進めていくほかないと主張する。そして、なおかつ、ここからが著者ならではのポイントなのだが、この立場を貫徹していくことで「福祉政策や不況対策が正当化できる理屈づけはないか」(168頁)を問うのである。一見、リバタリアンとは相反するコミュニタリアンの道に思えるのだが、コミュニティ路線は忌避される。個々人の生身の身体感覚における快・不快を、誰に気兼ねすることなく、さまざまな選択肢から選び取れる、そうした状態を享受できること、それを「自由」と定義づければ、コミュニティのもつ固定的人間関係(身内集団原理)がその限界(「包摂」が生み出す「排除」)をあらわにしてしまうのだ(110頁)。
 自由を制限するのは人間関係にかぎるものではない。多数の人々のデフレ予想の結果、不況に居着いてしまい、失業の憂き目にあわされたなら「自由が奪われている」といえるし、まわりが残業する職場で個人的にはいやだけれどみんなに合わせて残業せざるを得ない状態にあれば、それも自由が奪われているといえる。つまりは、経済状況であったり、世間の空気であったり、制度であったり、慣習であったり、そうした人の手ではいかんともしがたく思える、個人の選択肢を制限・束縛する、環境やふるまい(ゲーム理論の「ナッシュ均衡」)、考え方、つまりはマルクスのいう「疎外」の状態にあれば、それは自由が侵害されていることになるのだ。そしてその状態は、ひとがつくり出したものであり、であれば人の力で変えられる。前著の書名に『不況は人災です!』(筑摩書房・2010年)が象徴している。不況は自然法則などではなく、「人々がもつデフレ予想の合成」が生み出しているのであるから、それをインフレ予想にもっていく施策を打っていくことが対処法になるのだ。そのためにはリバタリアンとは真逆で親和性がないとされる、金融緩和によるリフレ策であっても、財政支出を拡大するケインズ的手法であっても、「自由」を取り戻すためという目的において、その道理があるのである。
 さて「疎外」克服のために、マルクスはこう考えた。資本主義が成熟した段階に達すると、労働が普遍化され、労働者個々人がアイデンティティを喪失することで、均質なプロレタリアート大衆間の「示し合わせ」が容易となり、自由を満たすための相互調整が可能になっていく、と。しかし、みんながみんなアイデンティティを喪失したプロレタリアートになってしまうことだけにその処方箋があるとするのは、ある意味、仕事の複雑化・特殊化の傾向にある現在、また先鋭的なアイデンティティを振りかざすことが主流となった現状からすれば、さすがに現実感がともなわない。
 そこで、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センさんの理論が援用される。それは「アイデンティティの喪失」から「アイデンティティの複数性」へ、というもの。個人が多様な人間関係を築くことや、多様な集団に帰属することで、多義的な自己を創出していこうとする考え方だ。「喪失による普遍化」から、「互いに他の特殊性を我がものにしあうことによる、獲得による普遍化」を目指す。それはもちろん一挙に成し遂げられるものではなく、「一人一人の身の回りのネットワークがだんだん広がることで、長い時間をかけて展望されるもの」なのだ。
 その先に、マルクスが展望した「開放的でなおかつ疎外のない社会」(アソシエーション)を設定する。ほとんど実現不可能に思える目標であるが、もちろんそのことは著者も了解済みのこと。何百年も先の未来にこうした理想社会を設定することにこそ意味があるとする。このあたりの事情は、カントの「統整的理念」という用語で著者は説明している(234頁)。
 これまでの著作『「はだかの王様」の経済学』や、『商人道ノスゝメ』『不況は人災です!』『新しい左翼入門』などで示されてきた、さまざまな理路が、本書の主題である「自由」論に収斂されていく。ああ、あの本のあそこは、じつはこういうことだったのか、読み込めていなかったジグソーパズルの不足を埋め合わせていくようなダイナミズムを味わう一冊であった。(か)2016.4.3
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