近著探訪(55)

  
天路の旅人   ■沢木耕太郎 著・新潮社・2022年■

天路の旅人



 取材を始めて25年、執筆から7年という時間を経過して上梓された本書『天路の旅人』は、第二次大戦末期から戦後の1950年まで、ラマ教の巡礼僧に扮し「密偵」として中国大陸の奥地に8年間潜行していた西川一三という男の足跡をたどった作品である。
 四半世紀という、その著者沢木耕太郎氏の作品への年月のかけ方に、あの記念碑的名作『深夜特急』(3巻、新潮社)を思う。第1巻と第2巻の『第一便』『第二便』は1986年5月に同時刊行されたが、最終巻の『第三便』は遅れに遅れて6年後の1992年10月だった。当時、待ちくたびれてしまったことを思い出す。幸い本書のばあいは著者の作品化への道のりは「潜行」しており、これがもし刊行予告などされていようものなら沢木ファンとしてはかなりのストレスフルな年月を強いられたかもしれない。
 さて、本書は、西川自身の著作である『秘境西域八年の潜行』(芙蓉書房、上巻1967年、下巻1968年、のちに中公文庫全3巻、1990年)をもとにしたものだ。沢木氏が西川の人物像を「密偵」というよりも「旅人」として捉えなおしてよみがえらせたノンフィクションといえる。
 さらに、構想段階では存命中(2008年没)であった西川を50時間にわたってインタビュー(1997年)し、西川の著作と生原稿をつきあわせながら、地図を克明にトレースして、その足跡を「正確に」たどったものだ。「正確に」というのは、西川の芙蓉版も中公版もどちらも割愛箇所が多く、しかも誤記(誤植)が目立ち、つじつまが合わないところが散見されるという。いかんせん西川の手になるオリジナル版は原稿用紙3200枚にも及ぶ大長編ゆえに校正・校閲も不十分であった。
 沢木氏が本書「あとがき」で報告しているが、西川の遺品から、全く手を入れていない、読んだ形跡すらも伺えない初校ゲラ(中公版)が見つかっている。出版社へも戻していない状況からして、著者校正の手続きを踏まず、ほとんど初校状態そのままで印刷・出版されたようである。私の手元にある『秘境西域八年の潜行』は上巻の奥付には初版が7刷、新装増補版で6刷となっている。下巻も同じような刷り数である。当時かなりのベストセラーであったことが伺える。しかしその内容の不正確さを指摘する声はほとんどなかったことからして読み通した読者はそれほどいなかったのではないかとも思われる。なんせ8ポイント2段組の、上下巻合わせて800ページにわたってぎっしりと活字のつまった版面は読む前に気持ちを萎えさせるにじゅうぶんだ。
 かつて私どもで刊行していた『南船北馬』という雑誌で、チベットを特集したことがある(『南船北馬』6号、1987年12月)。そのなかで「チベットの本」というコーナーを設けてこの『秘境西域八年の潜行』を取り上げているのだが、「実はまだ読了しておらず青海省あたりをうろうろして肝心のチベット篇まで辿り着いていない」と(若き!)私は記している。上巻の半分あたりである。35年以上前のことなので往事渺茫としているが、おそらくは途中で投げ出してしまったにちがいない。
 著者も新聞のインタビューで次のように話している(神戸新聞、2022.11.9)。
 すでに出版されている西川の本を、「自分が新たに何か書く意味があるのか」との当初抱いていた逡巡を乗り越えて執筆への一歩を踏みだせたのは、やはりこの圧倒的なボリュームゆえのことであった。「分厚い文庫本3冊に及ぶ同書をどれだけの人が読んだか、疑問が湧いた。彼の旅の道しるべになる本を出しても良いのではないか。彼とその旅の面白さを読者に味わってもらうためなら」と。

 鼻の癌の術後、病院の治療を終え、ショートステイ先の施設に向かう晩年の西川が一人娘の由起にぽつりと言う。「……こんな男がいたことを、覚えておいてくれよな」と。それに対して由起は、西川の着替えやら日用品の準備をしながら気もそぞろに「はい、はい」と上の空で答えてしまうのだが、これが西川の生前最後の言葉になってしまった。のちのち由起は返事を軽く流してしまったことに深く後悔する。
 しかし、禍福は流転す!であった。沢木耕太郎という、当代きってのノンフィクションの“語り部”を得て、西川の痛切な思いは満願成就したように思われる。由起の無念の思いもいくらかは晴らされたかもしれない。そして私たち読者にとっては、フレンドリーな読み物に生まれ変わって西川一三という稀有な旅人とその世界を堪能することができるようになった。慶賀の至りである。 2023.1.19 (か)
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