近著探訪(56)

 
目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】 ■中野剛志 著・ベストセラーズ・2019年■

『目からウロコが落ちる
奇跡の経済教室 基礎知識編』
中野剛志 著
ベストセラーズ・2019年


『文藝春秋』2021年11月号



『ケインズ』
伊東光晴 著
岩波新書・1962年
 現代ならではともいえる取り付け騒動が起こった。銀行の信用不安の噂がSNSで一気に広がり、あっという間に経営破綻してしまった米国のシリコンバレー銀行の一件である。先月3月8日、「この銀行は危ないのでは」との情報がツイッター上を駆けめぐると、翌9日には日本円にして約5兆6000億円が引き出され、10日に破綻してしまった。スイスの金融機関クレディ・スイスも昨年(2022年)SNS上での情報がきっかけとなって大規模な取り付けがなされ、ネット資金の流出が1兆8900億円に上ったといわれている。
 わざわざリアル店舗に出向かなくても預金者はネット上での操作で資金移動を一瞬にしておこなえる。しかも情報は瞬時にして全世界で共有される。それが不確かな情報であろうとなかろうと、事は一気に突き進んでしまうのだ。
 それにしては……と思う。一昨年の『文藝春秋』(2021年11月号)に掲載されて話題となった「財務次官、モノ申す このままでは国家財政は破綻する」(矢野康治)という記事だ。一国の金庫番のトップ官僚が、日本は「先進国の中でもずば抜けて大きな借金を抱えている」にもかかわらず「さらに財政赤字を膨らませる話ばかりが飛び交って」おり、「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなもの」と危機感をあらわにしたのだった。で、何が起こったか?
 こちらは紙ベースのアナログ情報ではあるものの、日本を代表する真っ当な月刊誌に掲載された「論文」であり、その点では与太話の類ではなく確度が高い情報と受け取られたはずだ。さらにさまざまなニュースでも取り上げられ大いに衆目を集めた。なのになぜか、円が売り浴びせられることもなく、国債の暴落が惹起されることもなく、金利が急騰することもなかった。いたって平穏な日々がその後も続いている。だれも国家財政の破綻が近いなどと思わなかったということか。銀行の経営幹部が「わが銀行は破綻に向かいつつある」などというメッセージを出せばいったいどんな結末を迎えることになってしまうか。そう考えれば、そもそも財務事務次官が「破綻が近づいている」と発信できることじたい、太平楽さがうかがえて、その「危機感」とやらの本気度に一抹の疑念を抱かざるを得ない。
 実際のところ財務省のホームページには次のような内容のことが記されている。外国の格付け会社による日本の国債の格付けがシングルAに格下げになったことを受けて、財務省が「意見書」として掲示したものだ。
 いわく、「日・米などの先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」、「国債はほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化されて」おり、また「日本は世界最大の経常黒字国、債権国であり、外貨準備高も世界最高」であると高らかに宣言して、ゆえにシングルAという格付けは低すぎるのではないかと苦言を呈している。今も財務省のホームページで閲覧できる。
 国内向けには世界最大の債務残高を憂い、その返済には緊縮財政と増税でまかなうしかないのだとするいっぽう、対外的には世界最大の債権国であると胸を張って、これほどに与信力の高い国家はないんだぞ!と威勢がいい。何が本当なのか……。この二枚舌はちょっと恥ずかしい。
 ところで「意見書」にある「自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」という下りは近年話題のMMT(現代貨幣理論:Modern Monetary Theory)の主張するところでなかったか。MMTは異端の経済学として、もっといえば主流派経済学者からすれば「トンデモ理論」と切り捨てられることも多く、MMTの話題を口にしたとたん、その人間の品性が問われかねないキワモノ扱いになっている経済理論である。主流派経済学の牙城である財務省においてこっそりとMMT的主張がなされていたとは。

 今回は、経産省の官僚であり評論家の中野剛志氏による「奇跡の経済教室」シリーズを話題にしたい。中野氏は日本におけるMMT理論の第一人者で、私はその著「奇跡の経済教室」シリーズの第一冊目『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』でMMTの初歩を教えてもらった。MMTといえば、さきの「自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」のフレーズが有名であるけれど、私にはその前段階の、貨幣の概念が文字通り「目からウロコ」だった。
「実存は本質に先立つ」とはサルトルであったが、MMTでは「信用(債務)は貨幣に先立つ」と表現される。お金は借用証書であるという考え方である。市中に出回るお金は誰かの借金によって生み出されたもの、というわけなのだ。
 景気がよければ(需要>供給)、民間企業は設備を増強したり、新たな事業の展開を計画したりする。つまり民間企業自らがさらなる発展を見込んで、投資ための資金融資を銀行に申し込む。銀行側がその申し込みを受けて融資を実行する。その実際は、その企業が開設している銀行口座に、例えば、1億円と記帳する(信用創造)だけである。それで1億円というお金が新たにポンと生まれる(もちろん融資前には銀行によって企業の信用力は査定される)。そしてその企業はそのお金を使って積極的に事業を展開していく。1億円はモノや人に流れていって、それが世の中に潤いを与えていくという仕組みだ。だれかの借金が世の中のお金を増やす。留意しておきたいことは、銀行の信用創造(記帳)でお金が生まれるということ。個人や企業が預金口座に貯めているお金が元手となって融資が行われるというわけではない。ただ単に1億円と記帳するだけで1億円分のお金が新たに生まれるということ。
 逆に不景気のときはどうか。つまり供給>需要のとき。モノをつくっても売れないし売れ残ってしまう。とうぜん企業の投資意欲は減退する。銀行からお金を借りてまで事業を拡大しようなんてリスキーである。企業家として合理的な判断である。企業がお金を借りないから市中に流れるお金の量も増えない。モノあまりだからモノの値段も上がらない。売れないからそこで働く人の給与も上がっていかない。将来が不安だからお金は使わない。貯めこむ。1億総シブチンである。活況を呈するのは100円均一のお店ぐらいだ。このシブチン状態(デフレ)が日本では四半世紀以上続いている。
 だからこんな時代は、消極的になった民間企業の代わりに誰かが借金をしてお金を増やしていかなくてはならない。その役目を担うのが政府だ。政府が積極的にお金を借りて(つまり国債を発行して)、財政出動していくことが求められる。民間がダメであれば政府ががんばらなきゃならない。そうでもしないとみんな貯めこむばかりで市中のお金がいっこうに増えていかない。
 政府が借金を増やすと、とうぜん財政赤字は拡大する。将来世代にそのツケを回していいのか!?というおなじみの批判が予想される……。
 そうした財政赤字の多寡を査定する指標というのは何なのだろう?
 さきの財務次官の「論文」で述べられている「対GDP比の債務残高256.2%」という規模が危険水域ということだろうか。『奇跡の経済教室【基礎知識編】』によると、吉川洋(東大)教授など日本を代表する経済学者たち(多くが経済財政諮問会議の議員を経験)は2003年当時政府の債務残高がGDP比140%に達していたことから財政状態は危機的状況にあると緊急提言をし、200%で事実上の破綻となる、そう主張していた。しかし、その後200%を超えても破綻を迎えることはなく、今では250%を超えてしまったが、幸いなことにぶじ過ごせている。この手の主流派経済学者の予測は外れっぱなしで、そもそも「理論」としてどうなの?と思わずにいられない。
 さて、MMTの考え方では、財政赤字を評価する際、対GDP比の債務残高にその限界をみるのではなく、インフレ率が指標となるという考え方だ。数%の健全なインフレ率をはるかに超えるような、急激なインフレの事態になればそれは財政赤字が大きすぎるということになる。「巨額」な財政赤字といわれている現時点では、黒川前日銀総裁が目標とした2%のインフレ率が10年かけても達成できなかった(金融政策一辺倒で、政府の財政出動があまりにもショボすぎたことが主因)ことからすれば、それは「巨額」でもなんでもないということになる。もし急激なインフレに見舞われたら、そのときこそ需要を抑制すべく消費税の税率アップであったり、所得税の課税を強化するなどの増税を実施して、市中に出回っているお金を回収していくことになる(結果、財政赤字は縮小していく)。
 税金は、なんらかの政策実現のための「財源」としての位置づけなどではなく、MMTによればインフレ率をコントロールするためのツールであるという考え方だ。最近では子ども予算の財源がない!ので新たな税収を用意しなければならないなどと政府・マスコミをあげてそうした主張がなされているけれど、MMTからすれば財源がなければとうぜん国債となる(実際は無駄な支出がたっぷりとあるはずだから、子ども政策が喫緊の課題であるのであれば、その予算の執行順位のプライオリティを高くすれば済むことだ)。
 財政のバランスはデフレになれば赤字になり、インフレになれば黒字になるというだけのことで、赤字=悪ではない。悪玉コレステロールのようなものだ。悪玉がただただ少なければいいといったものではないのと同じこと(LH比が大切)。
 ともあれ、いわゆる財政の黒字化をめざす「財政健全化」という考え方ではなく、日本の経済そのものを健全化していかないといけない、と著者の中野氏はさいさん著書で述べている。そのときどきの経済状況に合わせて赤字を増減させる「機動的財政論」という考え方に基づくべきであると。今はデフレからの脱却が最大の課題であるのだから、とうぜん赤字は増やして行く方向で積極的に財政出動を仕掛けていかなければならない。
 とここまで書いて思うのは、ほとんどケインズの主張していた経済理論そのままで、なにもMMTと言わなくてもいいのではないかと思ってしまう。デフレになれば公共投資で政府が仕事をつくって、需要不足を補っていく。昔からそう教科書に載っていた。デフレ下でやるべきことはMMTであろうがケインズ経済学であろうが同じことだ。MMTという新しい貨幣理論がケインズ経済学に基づいた政策の遂行性を担保してくれていると考えればいいだけのことのように思える(実際ポスト・ケインズ派といわれているらしい)。
 ケインズであれば教科書にも紹介されていたようにその処方箋の効能は歴史的に実証済みだ。「MMTといえば唇寒し」であれば「ケインズ」経済学を前面に出せばいい……なんてわかったようなことを言っている私であるが、学生時代「ケインズ」をまともに勉強したことはない。じつはこのあいだ入門書をこっそりと紐解いた。伊東光晴『ケインズ−“新しい経済学”の誕生−』(岩波新書、1962)という、「ケインズ」入門のテッパンの書として評価の高い一冊だ。その「序説」に中野氏が紹介していた「機動的財政論」を説く一文に早々に出くわした。
「(ケインズの登場によって)国の予算はたえず収入と支出が一致しているべきだとする均衡財政政策から、必要に応じて赤字にしたり黒字にしたりする伸縮財政政策に変わった」(3頁)と述べる。「均衡財政政策」が昨今いわれるところの「プライマリーバランス(PB)」を重視した「財政健全化」のことで、「伸縮財政政策」が中野氏が述べる「機動的財政論」ということだろう。1962年初版の「入門書」の冒頭3頁目に「財政規律」至上主義の誤りが指摘されていた。
 そして、デフレ時には「(政府は)税収入よりも支出を多くして、その分だけ物を買い、有効需要を作りだす必要がある」わけで「赤字財政もこのような場合には(略)有効である」(118頁)。そうしたケインズの主張する政策を実現可能にするためには、「中央銀行が貨幣をいくらでも金融市場に投入できること、政府が赤字公債を発行して公共投資ができることが必要であった」(150頁)。
 この前提条件を理論的に担保してくれるのがMMTだ。MMTを全面に出してその有効性を主張していくよりも、ケインズ政策実行の陰の立役者として位置づけてたほうが通りがいいように思う。MMTに対しての反論では、論理的な主張がなされるよりもむしろ生理的嫌悪感からの発言が目立つ。典型的な、その一つ。日経新聞の「大機小機」というコラムから。
「MMT理論の基本はインフレを心配する必要のないというもので、その元祖は米国だが、米国でも実際にインフレに直面した今日、その主張が絵空事であることが明らかになり、もはやほとんど誰も相手にしなくなっているという」(唯識、2022.11.3)
 日本を代表する経済紙の紙上でこうした荒っぽい物言いが活字化されてしまう。この「唯識」という方の阿頼耶識には、どんな現行の種子が薫重されているのだろう!? あまりに酷い書きようなので皮肉の一つも言いたくなった。
(か)2023.4.21
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