近著探訪(23)

 日本は悪くない
悪いのはアメリカだ   ■下村 治著・文春文庫・2009年■
 著者・下村治は、池田勇人内閣(1960〜64)の目玉政策であった「所得倍増論」を中心的に担った経済学者である。
 戦後の復興も一段落し、高度経済成長期に突入する原動力となった、この「所得倍増」計画は、経済成長率を年9%とし、10年後には所得を2倍にするといったものだった。
 当時、「倍増は可能か」と物議をかもし、経済学者の都留重人などは「池田は何を二倍にしようとしているのか。賃金か月給か国民総生産なのか。そしてそれは名目なのか実質なのか」と疑問を呈し、「10年後、2倍が実現していなかったら詰め腹を切れ」とまで責め立てた。池田のブレーンであった下村が依拠する分析手法にも批判を投げかけ、激しい論争が起こった。ところが実際は、驚異的な成長を成し遂げ、10年後には4倍を超えるものとなった。人も社会も活力に充ち満ちた、日本が元気だった頃のお話である。
 かくいう私は小学校に入学するかどうかの年齢。物心ついた頃にはわが家も、たぶん所得は4倍になっていた(のかな?)。だから当時の激しく上昇していく時代を実感できていないし、当然、下村治の経済を捉える「凄み」といったものも知らなかった。 「下村治」を知ったのは、ごく最近のことで、沢木耕太郎『危機の宰相』である。前述の都留重人による批判も『危機の宰相』から抜き出している。
 1975年、文藝春秋の雑誌記事の取材で沢木が初めて下村にインタビューしたときのことを「序章」に書いている。下村を御用エコノミストと見なし、青年特有の、体制に対して敵対心をもつ著者が「初めて大人らしい大人にぶつかり、弾き飛ばされてしまった」としるし、「しかし、不思議と不愉快ではなかった」と印象を述べる。『危機の宰相』を執筆するきっかけそのものも、下村治という存在への関心がまずあったようである 。
 さて、本書は、書名からはわかりにくいが、1980年代前半の日本の対米経済政策を論じた内容のものである。大減税で経済の活性化をめざすレーガノミクスが引き起こした、大規模な財政赤字と国際収支の大幅な赤字、いわゆる「双子の赤字」に苦しむアメリカに、怒濤の如く流れ込む日本製品。そうした事態にどう日本が対応すべきなのか、侃々諤々の論争が繰り広げられた。アメリカからはアンフェアだと罵られ、輸出規制の圧力をかけられ、市場開放を求められ、高い貯蓄志向まで指弾される。ジャパンバッシングが吹き荒れた時代である。多くの日本人識者も、アメリカの尻馬に乗ったかのように、日本側の政策に批判的であった。国際(アメリカ)協調路線で、規制を緩和し、市場を開放し、自由貿易を死守すべしと。
 いっぽう下村の論旨は明快だ。書名どおりに「悪いのはアメリカであり、日本は悪くない」である。アメリカ側が増税に踏み切り、緊縮財政に舵を取れば収束する問題であり、日本の問題ではない、と。
 その根底にあるのは「国民経済」という視点だ。「経済」とは、国民の生活向上をはかり、雇用を高め、付加価値生産性の高い就労機会をつくりだしていくことであり、世界経済は各国の「国民経済」の棲み分けの問題に過ぎないとする。「自由貿易」に絶対的な価値を置くこと自体が錯誤で、たぶんに観念的なものであると。
 たしかに「経済はボーダレス」なんて文言は耳たこになっていて、それを大前提にして物事を考える習性が身についてしまっている。「保護主義的」な言辞を弄すると「時代遅れ」の烙印をおされ、国際感覚の欠如を非難されそうな今日であるが、下村は「国境がない」なんてことはありえないとスパッと言う。「政府があり、中央銀行があり、各国の通貨があり、為替レートがある」。こういう状況で「どう国境のない状態を想定できるのか」と。
 自由貿易を金科玉条に捉える価値観から距離を置く。「国民経済」「経世済民」という経済の基本中の基本を第一義的に捉える。そうしたことから世の中のことを見渡してみるとすこし見えてくるものがあった。下村は、1976年にすでに日本の「ゼロ成長」を予見し、これからの日本が採るべき道として「縮小均衡」を提言していた。大不況の真っ只中で苦しむ私たちの「今」のことや、ギリシャ問題に端を発するEUの危機的状況やら、突然浮上してきたTPP問題やらを考える上で、本書は示唆するところ大であった。今こそ読まれるべきだと思う。
2012年1月26日(か)
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