近著探訪(22)

 父が子に語る近現代史  
 ■小島 毅著・トランスビュー・2009年■
 近現代史は、日本の若者の多くにとって苦手とする「時代」である。ちなみにまわりの高校生や大学生あたりに聞いてみるといい。「明治以降はきらい」「奈良・平安が好き」なんていう。私の娘がそうだ。「奈良・平安なんて、まだドラマそのものも始まってないじゃない?」。言い過ぎであるが、現代につらなる歴史を俯瞰しようとすれば、近代以降は必須の素養となるはずである。かくエラソーにいう私も苦手である。理由はある。おそらく学校教育のせいである(50も過ぎて人のせいにするなんてカッコ悪いが、お許しいただきたい)。私が高校生だった1970年代前半においても、この21世紀に入ってからも、「近代以降」は授業でほとんど勉強しない。「きらい」なのはよく知らないからなのだ。学校教育において「近・現代」はなおざりにされている時代区分なのである。
 なぜだろう。日本史の教師は、新学期があけると、人類の誕生、縄文・弥生から授業を始めて、夏休み明けには「いいくにつくろう」鎌倉幕府あたり、学年度末が近づく頃には江戸後期をあわただしくやり過ごし、文明開化とともに時間切れ。あれほど時間をかけて丁寧に教えてくれた原始・古代・中世にくらべると、近代以降のあらっぽさは理解に苦しむ。教師生活を40年弱としてその間、反省もせず、飽きもせず、毎年毎年このような偏重した時間配分で、授業を進行させていることに驚く。カリキュラム編成の制度的な不備がもたらすものなのか、教師自身のかかえる欠陥ゆえのものなのか。いずれにせよ、私の知るかぎり40年この方、教授法において、反省・改善・計画性のなさは、なにかよほどの理由があるにちがいないと思うほどである。巷間いわれるところの教師個人の政治的心情的なバイアスのかかりやすい時代ゆえに意図的に回避しているのか。
 教科書の検定時期になると、韓国・中国などの近隣諸国から「歴史認識」問題でつつかれる。ほとんど恒例行事になっている感があるが、しかし、ほんとうのところは教科書にどう記述されていようと、現実の授業風景に歴史認識を争点とする時代を取り上げる授業は、ない。私は「認識」ニュースを耳にするたびに、すこし恥ずかしい思いをもつ。だって、ほとんどの学生は授業を受けてないんだから。「認識」以前の問題なのだ。
「日本人が日本人同士で暮らしていけるのであれば『日本史』などという科目は不要だとすら、僕は思います」(6頁)
「歴史は他者に向かって開かれなければならない」。ここで想定されている「他者」がくっきりと立ち現われてくるのは、近代以降である。他者との関係性、他者からの視線を考量することに自国史を学ぶ意義があるとすれば、日本の学校教育は根本的に改革が必要である。教科書検定で「認識」問題が唯一の争点のようにはやし立てられているが、そうではない。もっと次元の低い問題である。授業の時間配分を工夫してちゃんと「現代」まで教えましょう、なのだ。「平安貴族」にばかり時間をとってちゃダメだぞ!
2011年9月24日(か)
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