近著探訪(21)

 イスラム飲酒紀行  
 ■高野秀行著・扶桑社・2011年■
 人生の喜びが晩酌ということになってしまった私である。もっと楽しいことがほかにもたくさんあるにちがいないと思うのだが、悲しいかな、晩ごはんのときのお酒がその日その日の刹那的な関心事である。「今日の晩ごはん、何?」。まるで小学生の物言いであるが、献立を訊いて、ビールがいいのか、日本酒がいいのか、燗にするか、冷やでいくか、いやワインにしたほうが…。日が暮れる頃にはぐるぐる頭の中でシュミレーションを繰り返している。
 といって私は酒飲みではない。たんなるお酒好きである。だれにも迷惑をかけない「いいお酒である」と、(家人は同意してくれなさそうであるが)自己認識している。
 こんなおっさんになってしまった私めがイスラム圏を旅するとなると、ちと具合が悪いなと思う。ビールなしにカバブを食うというシチュエーションを想像しただけでも、旅心は萎えてしまう。さしあたって中東に行くような予定もないが、ここのところ露出過多のエミレーツ航空の広告を目にするたびに、旅心は揺らいでいるのである。
 著者は、巻頭一言、「私は酒飲みである。休肝日はまだない」と記す、正真正銘の酒飲み。本書は、重度の酒飲みがイスラム圏を旅し、クルアーンが禁ずる飲酒に果敢に挑んだ記録である。というわけで、私にとって、喫緊ではないが、いずれは懸案になるであろう興味深いテーマであった。
 それにしても、クルアーンでは禁酒が厳しく謳われる一方、緑園といわれる天国にはきれいなおねえさんと、いくら飲んでも酔わない酒がそこかしこに流れているんだぞ、と死出立のモスリムを鼓舞するのは、どういうわけなのだろう。現世との整合性はどうなっているのか。こっそり飲んでる不信心な人は当然いるであろうとは想像はできるが、標準レベルの敬虔さを持ち合わせた、いわゆるマジョリティーは、実際のところ、どんな飲酒・禁酒生活を送っているのか、気になるところである。
 結論から言えば、やはりそこは本音と建前の世界があり、清濁併せ呑む大人のふるまいがあった。しかしその建前をにやにやしながら持ち出すタイプ、渋面をつくってそわそわするタイプ、「酒」という言葉を聞くのも汚らわしいと演技するタイプ…。このあたりはお国柄が出てくる。チュニジアの砂漠のヤシ酒バー、イランのスーフィーたちのドブロク、真っ昼間から飲めるイスタンブールの、アタテュルクがお忍びで飲んでいたというワインレストラン、ソマリランド(ソマリア北部の未確認国家だそう。知らなかった)のジンなど、ふつうではうかがい知れない闇の世界が酒宴とともに浮かび上がる。
 
2011年8月8日(か)
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