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『サハラに死す』 ■上温湯隆 著/長尾三郎 構成/ヤマケイ文庫(山と渓谷社)/2013年■ |
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映画「アラビアのロレンス」(英米合作、1962年)のワン・シーンから。
英国の連絡将校であるT・E・ロレンス率いるベドウィン族で構成されたラクダ部隊がアカバを目指す。アカバ湾の背後から攻撃をしかけるべくネフド砂漠を踏破する有名なシーンだ。灼熱の太陽に完膚なきまでに焼かれた砂礫の荒野を、兵士たちがラクダの背に跨って渇きと熱暑で意識朦朧となりながら進軍している。いつしか睡魔に襲われてしまった一人の兵士、ガーシムがラクダから振り落とされてしまう。しかし、まわりの誰も気づかない。蜃気楼と熱風に吹き上げられる砂塵に視界もままならず、見渡すかぎり360度地平線に囲まれた、茫漠たる砂漠のどこかにガーシムは置き去りにされてしまったのだった。部隊はガーシムがいないことに気づく。救助に向かおうとするロレンスをベドウィンの兵士たちは引き留める。「これがガーシムの運命なのだから仕方がない」と。しかし、ロレンスは彼らの意見を受け入れることなく、単身命がけで救助に向かうのだった。そしてガーシムをぶじ連れ帰る……。この一件でロレンスはベドウィンたちから信頼を獲得し、そして彼らが信ずるところのイスラム的宿命論を乗り越えてみせたのだった。 物語的には重要なエピソードが盛り込まれている場面なのだが、ここでは些事ながらラクダに注目したい。映画の本筋には関係ないことではあるけれど、ラクダが気になる。ガーシムを乗せていたラクダは、荷が軽くなったことにこれ幸いとばかり(と私には思えた)、何食わぬ顔で隊列の行進に合わせて歩を進めていた。そのラクダの態度に少なからず私はショックを受けたのだ。ああそういうものなのか。この薄情さといったら。 上温湯(かみおんゆ)隆『サハラに死す』(ヤマケイ文庫、2013年)を読んだとき、このラクダ隊のシーンがふいに思い出されたのだった。 著者は1974年サハラ砂漠横断にチャレンジした、当時22歳の青年。西アフリカのモーリタニアのヌクアショットからアフリカ東海岸のポート・スーダンまで7000キロあまりの砂漠地帯をラクダ1頭を相棒に踏破するという計画を立てた。本書は彼の手記をもとに構成されたノンフィクションである。さて、このラクダ「1頭」というのは遊牧の民からすれば狂気の沙汰であった。スペアがない。そもそも無謀にすぎるのである。 職業的な冒険家ではない。高校を中退して、ヒッチハイクをしながら50あまりの国々を旅してきた。サハラ砂漠を縦断した経験もある。だから、プロではないが素人ではない。すでに豊かなサハラの知識と旅の経験を身につけた若者である。そして、この冒険を成功させた暁には、受験勉強に注力し大検を受けて早大クラスの大学に入り、卒業後は国連で働く。人生設計も明快だ。受験への焦りや不安が随所に正直に吐露されていてその点では多くの受験生と変わるところはない。サハラ横断はその目標に向かう前段階としてどうしてもやり遂げておかなければならない。「青春の旅は人生の原点なのだ」としるす。2度チャレンジした。1度めはラクダが過労で死んでしまった。5カ月かけてヌクアショットから3000キロ東へ進んだニジェールのメナカ近くでのことだ。ここまでの行程だけでも比類なき偉業であり、「人生の原点」としてじゅうぶんではないかとわたしは思うのだけれど、彼は東海岸に到達しない限り満足しない。そしてふたたびチャレンジする。メナカから出発して残り4000キロの行程を完遂することが目標だ。しかしメナカの東方130キロ付近の砂漠で、ただ一本しかない小さな灌木の下で渇死していたのを遊牧民によって発見される。出発してほぼ2週間後のことだった。ラクダはいなかった。装備を担いだまま逃げてしまったようなのだ。 2度目の挑戦のために買ったラクダは「(略)若く、気性が荒っぽく、買った当初は手こずりました。(略)木の影を恐ろしがり、動かなくなることもある。かと思うと、驚いて急に走り出して、頭から振り落とされたこともしばしば(略)」(243頁)。最初のラクダが病死してしまったことからか、選んだ2頭めは元気が良すぎたか。それが結局あだとなったのかもしれない。 映画「アラビアのロレンス」の元となったT・E・ロレンス『知恵の七柱』(柏倉俊三訳、東洋文庫、1971年)にラクダの選択において次の記述がある。 「資産のあるアラブ人は牝ラクダ以外には乗らない」とある。穏やかな性格、辛抱強さが持ち前らしい。牡は「怒りっぽく、疲れたとなると身体を投げ出し、単なる憤怒からその要もないのに死んでしまう始末である」(2巻43頁)。なんと「憤死」してしまうのだ! 「奇跡の2000マイル」(豪州、2013年)というオーストラリアの砂漠を舞台にした映画がある。20代半ばの女性が単独で4頭のラクダと愛犬とともに約3000キロの砂漠を横断した実話をもとにつくられたもの。このラクダ4頭のうち1頭は子供のラクダである。アボリジニのラクダ使いから子供を連れていくことで親ラクダが逃亡しづらくなるというアドバイスによるものであった。そもそもラクダは逃避癖があるという前提である。古代アラビアの時代、呪術師(カーヒン)たちの巫術の一つにギヤーファ(失せもの探し)というものがあったそうで、これこそラクダの居所を当てることがその内容であった。ラクダは逃げるのものなのだ。 映画では朝目覚めるとラクダたちが勝手に移動してして彼女が慌てふためく場面があった。彼女はラクダを見つけると棒でこっぴどく何度も何度も容赦なく打ちつけたのだった。 上温湯青年は一度めの旅においても何度もラクダが行方不明になる経験をしている。ラクダの習性は重々承知のはずである。 彼の手記を読み進むにつれ「人とラクダの友情」はそもそも成立するのかということがわたしは気になっている。彼は1代目、2代目のラクダにともに「サーハビー」という名前をつけている。アラビア語で「わが友」という意味だ。 写真家の野町和嘉氏が夫婦でサハラを巡っていたとき、ニジェールの首都ニアメイで上温湯青年にたまたま出会っている。その時のエピソードが著書『サハラ縦走』(同時代ライブラリ、岩波書店、1993年)に収録されている(「ラクダ君の死」)。「お互いの“サハラ狂い”に呆れ、話題は尽きるところを知らなかった」。そしてかれのラクダに対する気持ちが自分たち(野町夫妻)とまるで違っていたことに驚くのだった。「彼はラクダを単なる動物としてでなく、友として、自分と対等に見ていたのだ」(293頁)。実際、彼は2回めの出発にさいして、まずは1代目サーハビーのお骨拾いに向かっているのだった。 ご馳走の2羽のニワトリを手に入れたとき、彼は鳥に末期の水を飲ませて言った。「僕には殺せませんから、向こうの見えない所で殺ってください」。あまり優しすぎる青年の心根とその激しい冒険心との乖離が意外だったと述べる。 野町氏はその著書のなかでキャラバンに同行したとき隊列から遅れだした弱ったラクダを殺すシーンを紹介している。ラクダは、イスラム教徒の作法に則ったやり方で、頸動脈を一気にかき切られて屠られる。仲間のラクダたちが見守るなかで。「仲間から遅れだしたそのとき、ラクダは殺される。人間とラクダの暗黙の了解でだった」としるす。かつては人間でさえも動けなくなれば置き去りにされ、隊商は振り返ることもせず歩み去ったたという。「情に流されてしまったのでは、さらに別の命を危険にさらす」ということだった。それが砂漠の、非情の掟であった。その意味ではロレンスの行動は掟破りだったといえる。いっぽうガーシムを乗せていたラクダのほうは責められる筋合いはないのだろう。落伍者を気にしてその場に立ち止まってしまうようでは巻き添えを食ってしまいかねないのだから。 野町氏はここで、北極圏で単独犬ゾリ行を成功させた冒険家、植村直己氏がソリ犬について述べている記事を紹介している。……犬は愛玩用ではなく“労働犬”であること、働きが悪ければムチで叩き、棒で殴る。エスキモーは犬が少しでも反抗しようものなら殺して食べてしまう。「人間と犬との緊張関係を崩してはならない」「これが鉄則だ」と。 そして上温湯青年の死について「明暗を分けたのは、この動物の扱い方ではなかっただろうか」と野町氏は述べる。「人間はいつも動物の支配者でなくてはならない」。そのことが生き延びる唯一の方法であったはずであると。 「人とラクダの友情」はそもそも成立するのか。ここまで書いてきて、ようやく気づいた。そういう問いの立て方自体が、野町氏の言う「日本というまったく異質の風土に培われてきた目」で砂漠を「一編の小説」として了解する態度そのものであったことに。 2021.6.1(か) |
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