近著探訪(51)

  イスラム2.0  SNSが変えた1400年の宗教観 ■飯山 陽 著・河出新書・2019年■

  ジハードと死  ■オリヴィエ・ロワ 著/ 辻 由美 訳・新評論・2019年■

イスラム2.0


ジハードと死

 飯山陽『イスラム2.0』(河出新書、2019年)の「2.0」はコンピュータのOSバージョンにならったもので、「イスラム1.0」がアップデートされた、次世代バージョンを意味する。ひと昔前だったらこういった認識の枠組みを指し示すさい「パラダイム」という用語が使われていたように思う。最近はコンピュータ風に、OS(オペレーション・システム)とかバージョンなどと表現するケースをちらほら見かけるようになった。パラダイムであれば、コロケーション的には「シフト」となるが、その場合劇的変化をともなうコペルニクス的転回ゆえに過去との決別になってしまう。いっぽうOSやバージョンの場合は「アップ」させるゆえ、俯瞰的な立ち位置を獲得するイメージから、継続性を保持した概念のようにも思える。
 こういった使われ方をはじめて見たのは、経済学者の松尾匡氏の「レフト3.0」(近著探訪第47回『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』亜紀書房、2018年)という表現だ。1970年代あたりから現在までのここ50年ほどの左派・リベラルの変遷を「OSバージョン」で表現したのだった。(最近、目にしたものに「ストライキ2.0」という言い方があった。労働問題のバージョンを示すのかな?)
 さて、「イスラム2.0」は「レフト3.0」とは違って、ずうっとスパンが長い。イスラム教が興った7世紀から20世紀いっぱいまでのおよそ1400年のあいだ連綿と語り継がれてきた「イスラム教についての知識」をイスラムOS「1.0」と規定した。そして2000年あたりを境にそれ以降を「2.0」とする。それは、インターネットが普及し、SNSやらYouTube、Googleなどの利用で一般信徒の「イスラム教についての知識」がアップデートされたというわけだ。
「1.0」時代の一般信徒のイスラムの知識は、「モスクで聞く説教や近所の法学者への質問を通して」得たものだった。「それは必ずしも啓示の文言に忠実な知識ではなかった」という。識字率の低さもあり自力でコーランやら浩瀚なハディース(ムハンマドの言行録)を読み込んでその教えを一般信徒が正しく理解していくというようなことはそう簡単にできることではなかった。そのため、啓示に書かれている本当のことは一般信徒には知らされないまま、一部の法学者たちだけが独占してきた。時の権力者に取り入った法学者や宗教エリートたちは「神の言葉」を曲解・歪曲して、信徒たちを都合良く飼い慣らしてきた。これが「1.0」の時代であったと著者はいう。しかし、インターネット時代の到来で、信仰に関して不明なことがあれば、コンピュータの前でググればたちどころに適切な啓示テキストへアクセスできるようになった。法学者をたよる必要もない。YouTubeなどではタレント並みに人気のある説教師がわかりやすくイスラムの教えを説いてくれる。そうした情報に接しているうちにこれまで学んできた教説と、啓示そのものとの齟齬に気づき始める。イスラム1.0への不信の芽生えである。欺瞞と歪曲に満ちあふれた言説に長い間惑わされていたことにインターネット時代の信者たちは気づいてしまった。著者の言い方をすれば「ネタバレ時代」になった。
 たとえば「ジハード」という概念についてその意味の変遷をみてみると──。
 そもそもは、イスラムの教えが行き渡った、ムスリムたちの世界(ダール・ル・イスラーム)を拡大していくための軍事行動であり、異教徒の侵略から信仰共同体(ウンマ)を防衛するための戦いでもあった。さらには「啓示に違背するような統治をすすめる世俗主義者や不信仰者」と見なされる独裁者や君主を打倒するための革命やクーデターをも意味した。非ムスリムに対してのこうした一連の暴力的な殺傷行為(聖戦)がジハードの原義であった。コーランの説くところは、「不信仰者を友としてはいけない」(4章144節)、「不信仰者と出会ったときはその首を打ち切れ」(47章4節)である。「明らかに神はイスラム教徒に対し、異教徒と戦うように命じている」のである。
 しかし、これは為政者にとってはいささか都合の悪い概念であった。「一般信徒がジハードの教義をふりかざして世俗権力者に反旗を翻して」、暴動や革命を起こされたり、暗殺の標的にされるなんてたまったものじゃない。だから現状の体制を安定的に維持していけるように権力者と法学者が手を組んで巧妙にジハードの意味をずらしてきた。近代以降のイスラム法学者は「自分の心の中にある弱さや悪と戦う」といったふうにジハードを「内的な努力」と定義して、「道徳訓」としての意味合いで説いている。対外的にも意味の転換は求められた。非イスラム世界を敵と見なして戦争を推奨することは、さすがに時代錯誤で、好戦的なイスラムを振りまくことにもなって得策でない。
 しかし、インターネット時代の到来で、「啓示コンシャス」になった一般信徒は「啓示通りに異教徒への敵意を強め、攻撃を実行するようになった」と著者はいう。つまり原理主義的になった。「コーラン」を神の言葉そのものと捉え、「神聖不可侵」にして一字一句を言葉通りに受け入れることを良しとするイスラム教徒にとって「原理主義的であることは完全に善であり正義」となる。啓示に忠実であればあるほど、異教徒や不信仰者の「首を打ち切る」ことが良しとされるのだ。昨今のイスラム過激派によるテロ行為の正当性が啓示によって担保されているかぎりイスラムの過激化はこれからも免れないだろうというのが本書著者の見立てである。
 16世紀、グーテンベルグの活版印刷の発明で、聖書が大量に印刷されるようになって宗教改革が引き起こされていく流れと似ている。一部の聖職者が写本でしか読めなかったギリシャ語聖書がローカル言語にどしどし翻訳され、大量に本となって流通してくると、誰もが聖書を手に取ることができるようになる。結果「啓示コンシャス」になっていく。教会が一般信徒向けに販売していた贖宥状(免罪符)の正当性がじつはどこにもなかったことが判明するにいたってルターによる宗教改革の幕が切って落とされたのだった。当然ここでも聖書の文言に忠実な原理主義的潮流が生まれてくる。プロテスタントの誕生だ。このプロテスタンティズムから「資本主義の精神」が涵養されたと説くのがマックス・ウェーバーであるが、イスラムの原理主義はテロリストを涵養したというのである。
 昨今のイスラム国やら、世界中で勃発するイスラム過激派によるテロ事件の背景を、こうした「イスラムの過激化(原理主義化)」に求める立場に対して、「過激性のイスラム化」という、まったく逆のベクトルからの論考がある。
 フランスの政治学者オリヴィエ・ロワ『ジハードと死』(辻由美訳、新評論、2019年)では、テロリズムの発生について「イスラームが過激化したのではなく、現代的過激性がイスラームのなかに入ってきた」と読み解く。膨大な数のテロリストたちのプロファイルを分析することを通して、現代若者の「ニヒリスト」像を摘出した。「断固たる死への希求」と結びついた「未来なき」「反逆する若者」世代、そのかれらによる「世界秩序に対する世界規模の反乱」として捉える。ひとときの「極左」と構造的には変わるところがないと指摘する。中国の紅衛兵や、日本赤軍、カンボジアのクメール・ルージュなどに共通するのだ。かれら極左が革命をめざすマルキストであったというよりは、反乱のための反乱を企てる若者たちであったように、イスラムを標榜するテロリストも暴力そのものが目的である、と。だから特別に信仰が深いわけでもない。多くが促成の改宗者で、その意味では「信者にちがいはないが、サラフィー主義者(初期イスラームへの回帰を唱える厳格派)とはいえない」。つまりムハンマドの時代への憧憬を抱くような歴史観・宗教観はほとんど持ち合わせておらず、無知ですらある。もちろんコーランを読むための古典アラビア語に通じているわけでもない。自爆死することが目的であり、「きわめて現代的なヒロイズムと暴力の美学」の実現に宗教的文脈を借用して自己を演出する。この一連のシナリオ化に「大義をあたえているのがイスラーム」であると。
 著者はいう。「宗教の過激化」という表現は適切ではない、なぜならこのテーゼが成立するのであれば、「穏健な宗教とは何か」を定義しなくてはならない。つまるところ、「穏健な宗教というものはない、穏健な信者が存在するだけだ」と。
2020.3.28(か)
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