ムハンマド・アリー公『日本紀行』
『日本旅行記』宮島(広島)編【前編】(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著 

宮島(厳島神社)
 ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅)
 ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎)
 ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎)
 ◆写真:public domain

 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)は、オスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版から「宮島(広島)」にまつわる部分を訳出したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。「神戸編」はこちらへ。

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 我々の乗った列車(1)が(神戸から)宮島に向けて走り出した。列車には、その外見からするとヨーロッパのどこかの大都市で教育を受けたであろうと思われる日本人3人が乗っていた。その内の1人は将校だ。彼が良質の教育を受けてきたことは、その話し方からうかがえる。残る2人の内1人はその話し方と身振りからすると、おそらく俳優であろうと思われる。
 昼頃我々は食事をとるために食堂車(2)へ向かった。
 我々はそこでも彼らを見かけた。サケと称する、米から搾られた飲み物(ワイン)を飲んでいた。
 彼らが戻ってきたとき、1人は靴下を脱いで、酒の酔いからであろうか、指をいじり始めた。

(1)列車|1894年(明治27)に日本初の急行列車が神戸・広島間で運行を始めた。所要時間は約9時間だった。その2年後には東海道線でも急行列車が走るようになる。新橋・神戸間の所要時間は17時間あまり。当時急行料金は不要だった。(参考=清水勲編『ビゴー日本素描集』岩波文庫、1986)
(2)食堂車|1900年(明治33)山陽鉄道の急行列車に食堂車が連結されるようになった。

 我々を乗せた列車は、広島と呼ばれる都市を通過した。そこは日本海軍の最大級の港(1)である。そして、日清・日露戦争のとき、日本兵の動員がなされた港(2)でもある。遠くを眺めると、2隻の軍艦が展開しているのが見える。士官とその候補生たちの訓練が行なわれているようだ。

(1)日本海軍の最大級の港|日本海軍の港は正しくは呉港になる。その沖合にある江田島には海軍兵学校があった。陸軍のほうは、広島港(宇品港)となる。
(2)動員がなされた港|こちらが上述の「宇品港」になる。日清戦争の開戦(1894年7月)直後の8月に広島駅から宇品港までの軍用鉄道が開通している。なお神戸・広島間の山陽鉄道も同年6月に開通したばかり。急ごしらえで朝鮮・中国大陸への大規模な軍事輸送が可能となった。

 駅に停車している状態で一等車(1)が列車に連結された。駅員たちはその車両にバラの花束を飾った。その理由を尋ねると、以前述べたところの、アメリカ合衆国の特使(2)のためのものであるとのこと。
 列車は宮島を目指して進んでいく。この特使と公式な会見の機会をもった。彼は非公式の観光旅行にもかかわらずこれに応えてくれた。宮島駅(3)に到着したとき、通訳が特使に私がエジプトのヘディーウ(副王)の弟であることを伝えた。すると、彼はそのことをことのほか喜んでくれ、友好と歓迎と栄誉の限りを表してくれた。

(1)一等車|一等車の料金は三等車の3倍であった。明治20年代半ばで新橋・神戸間が三等車で3円76銭、二等車で7円53銭だったそうだ。一等車であれば10円を超えていただろう。ちなみに当時巡査の初任給は8円であった。(参考=前掲書『ビゴー日本素描集』)
(2)アメリカ合衆国の特使|「以前述べたところの」とあるのは、本作品の「日光」編でこの米国特使への言及がある。肩書きがワキール(wakiil)ライース(ra'iis)とあって、wakiilが「代理・副・補佐」といった意で、ra'iisは「大統領」「長官」などをさす。ストレートに訳すと「副大統領」となってしまう(とりあえずここでは「特使」とする)。名前は、アラビア文字をローマ字に転写するとFryanksとなって、近いところでFranks(フランクス)かと想像する。いろいろ当たってみたが人物を特定することができなかった。どなたかご教示いただければ幸いです。
(3)宮島駅|現在の「宮島口駅」。1897年に広島駅から徳山駅まで山陽鉄道が延伸し、その時宮島駅が置かれた。鉄道の駅がなかった時代は、広島市の本川・元安川、京橋から船で宮島に渡っていた。

 宮島は小さな町である。そして宮島全体が神聖なものとみなされている。すべてが神の領域なのだ。そこは「内海」と呼ばれる海の、その沖合に浮かぶ300もの島のうちの1つである。まったくもって素晴らしい景観である。数々の名勝地、美しい自然の景観にあふれるこの国にやって来る旅人たちは、きっとこの地を訪れる(1)ことになるだろう。
 駅から桟橋に向かった。そこから小さな船に乗って宮島に到着した。ちょうどその時、潮の満ち干があった。潮が引いたときは、しばらくしないと、島には渡れない。
 宿に着いたとき、宿の主人が、旅客の多さについて我々に電報を打ったという。我々が2日遅れたこともあって、それはこちらに届かなかったし、旅程を延期もしなかった。
 ここの宿(1)は、インドでいうところのバンガロータイプで、5つの木造のはなれ(2)から成り立っている。それぞれに3つから、4つ、5つの部屋がある。 すべて満室だった。この宿は2つの山に挟まれた池の真ん中に位置している。高いほうの山から流れてくる水流の口が池に設けてある。

『日本案内記』
(マレー、1901)

(1)この地を訪れる|当時の著名なガイドブックとして、英国の出版社マレーが出していた『日本案内記“A Handbook for Travellers in Japan”』(初版、1890年)がある。著者は東京帝国大学で教鞭をとっていた日本学者のB.H.チェンバレン。宮島が紹介されるようになったのは、1891年の第3版から。以後版を重ねるにつれて「注目すべき観光地として何度も言及」されるようになる(参考=県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014)。左の写真は、マレーの『日本案内記』(第6版、1901年)の「宮島」の紹介ページ。マレーはダーウィンの『種の起源』(1859)を出版したことで有名であるが、スイス、フランス、インドなど旅行ガイドブックをシリーズ化して出版していた。日本版もその1冊。表紙が赤っぽい装丁だったので「レッド・ガイド」と呼ばれた。現代でいえばオーストラリアの出版社ロンリープラネットだろうか。誌面の作り方もどちらかといえば文字情報をぎっしりと詰め込んだ編集でその雰囲気は似ている(左の写真は、厳島神社がイラスト化されているが、こうしたビジュアルのページは珍しい)。
(1)ここの宿|紅葉谷に位置する、安政元年(1854)創業の老舗旅館「岩惣」と思われる。F.フェルディナント『オーストリア皇太子の日本日記』(講談社学術文庫、2005)には、この岩惣について「小家屋が瀟洒に点在し」「一棟一棟がそれぞれ異なり」「造形感覚が多彩で」「小粋なセンス」と賞賛する文章がみられる。
(2)はなれ|kushkaat(kushkの複数形。ペルシャ語由来の「クシュク」)。トルコ語では「キョシュク」と発音される。いわゆる「キオスク」のこと。中東や地中海沿岸で発達した庭園内の簡易建造物。壁面の一部、またはすべてが開放されていることが多い。四阿(
あずまや)、西洋のガゼボなどに当たるが、ここでは宿泊施設であるので「はなれ」と訳した。

 荷物は2時間遅れで海を越えて我々のもとに届いた。荷物の到着を見るために小高いところに登っていたので、鹿やヤギの群れが一望できた。動物たちは従順で、島の住民に飼われている。
 その後、レストランへ向かった。そこ(1)は、申し分ないところであった。ここでその夜、我々は気持ちよく泊まることができたのだ。

(1)そこ|料亭旅館「白雲洞」と思われる。明治中期に開業。明治39年(1906)に神戸の「みかどホテル」に買収され、「宮島みかどホテル」と改称。明治45年に「宮島ホテル」となる。明治半ばに当旅館に宿泊してその記録がしるされている作品に、ハーバート・G・ポンティング『英国人写真家の見た明治日本』(講談社学術文庫、2005)がある。「さらさら流れる小川に架かった橋を渡ると、二間続きの小綺麗な離れ家があった。彼女はここが今晩お泊まりになるところでございますと言って、部屋のランプをつけると、お茶とお菓子をとりに戻っていった」(317頁)。昭和28年(1953)に焼失。現在その跡地に「国民宿舎みやじま杜の宿」が建っている。
宮島ホテル

 朝になってこの土地を散策すべく出かけた。大きな通りに出くわした。そこで多くの鹿やヤギを見た。女性たちが紙袋に入った実のようなものを売っている。人々は彼女たちからそれを買うと鹿やヤギに投げ与えている。動物たちは従順であるにもかかわらず、人間のどんな動きであっても目にすると、おどおどして恐れをなす。
 その通りで目を引いた、最高に美しいものの一つは、石で作られた外灯だ。それらは、同様に石でつくられた柱(台座)の上に置かれている(訳者註=石灯籠(1)のこと)。素晴らしい造形物で、素敵な雰囲気をかもし出している。これらは中国で作られたものだ(2)

(1)石灯籠|前掲書『オーストリア皇太子の日本日記』においてもこの石灯籠は絶賛されている。「暮色が迫ると、鑿で彫られたくぼみに灯火がともされ、辺りの闇がはらわれる。このようなセンスはよほどの美の達人でなければなしえないものであり」「このような鋭敏な想像力は、自然美に対する感受性や深い詩情の裏打ちがなければありえないものだ」(72頁)
(2)中国で作られたものだ|おそらく聞き間違いであろう。このあたりの石灯籠のほとんどは尾道の石工が製作したといわれる。石造物製作の技術集団「尾道石工」は16世前半より広く知られた存在であった。石材となる花崗岩(御影石)は広島全域から産出される。宮島も島全体が花崗岩である。

 我々は何枚か写真を撮りたく思っていたところ、この島では2つの事情で撮影は禁じられていると知らされた。1つにそれらは神聖だからである。そもそも島すべてが神聖なものとされている。信仰の対象であり、畏敬の念をはらうべき対象であり、故にそうしたもろもろを撮影することはできない(1)。2番目に、神の使いである鹿やヤギを守るために。たとえば犬のような厄介な動物を連れて歩くことも全面的に禁じられている。鹿やヤギが不快な目に遭わないよう、ここでは人力車でさえ見られない。

(1)撮影することはできない|もう1つ、撮影禁止の理由があった。それは、明治時代の厳島には陸軍の砲台などの軍事施設が数多くあったからだ(参考=中川利國・広島市公文書館長「〈資料解説〉エリザ・シドモア『不朽の島』」)。「この軍事施設を写生したり、写真を撮ったりする行為はフランスやドイツと同様、堅く禁止されています」(エリザ・シドモア『シドモア日本紀行』講談社学術文庫、2002)と記されている。

 この島の、最も大きな通り沿いにあるいくつかの店に立ち寄ったが、お土産になるようなものは見つからなかった。そこから評判の大きな神社(厳島神社)に行った。そこは10世紀以上も時間が経過している。海上に配置された木でできた柱の上に建てられていることで有名である。時代の古さにもかかわらず、その期間を通してほとんど劣化していない。柱だけでなく、その全体が木で作られている。そしてそこには多くの技巧が施されている。驚くべきことは、潮が引くと海から姿をあらわし、 潮が満ちると、それは海に入っていく。 社殿からおよそ100メートル(1)のところの海上にゲート(鳥居)があり、海からの出入り口になっている。 この門の高さは16メートル、幅は30メートル(2)だ。それは木製の大きな部材で建てられている。どこから見てもまるで一つの部材から作られているように見える。軍隊の指揮官であった将軍の一人(3)が、朝鮮を打ち負かしたあと、それを寄進したという。
 屋根付きの神社の回廊(4)にも多くの人が立ち寄ってその信心の念をあらたにする。この回廊もまた木でできた柱が隣り合わせに配置され、それらすべてが海上に建てられている。そこには大勢の神官と禰宜と、熱心に礼拝をしている巫女たちがいる。巫女たちにいくばくかのお金を払えば、宗教的な古代の衣装を身につけて、古式ゆたかに踊ってくれる。

(1)100メートル|実際は約160メートル。
(2)幅30メートル|高さはほぼ正確であるが、幅は約24メートル強。
(3)将軍の一人|不明。陸軍少将の藤原利昌か? 記録には日清戦争の威海衞での戦いにおける勝利を記念して大鳥居の矢玉を寄進したとある。厳島神社への参道沿いの御笠浜(みかさのはま)に藤原利昌による歌碑もある。ただ戦果の場所は朝鮮ではなく、山東半島の威海衞である……。あと一人候補として考えられるのは、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王だ。日清戦争当時、参謀総長だった。広島大本営に詰めていたはずであり、地縁はじゅうぶん。「朝鮮を打ち負かし」とあるのは、「平壌陥落(1894)」か。大鳥居の扁額を奉納した記録はあるが、残念ながらこれは1875年の第9代大鳥居建立の時のこと。結局、確実に同定できる人物には行き当たらず。どなたかご教示いただければ幸いです。

 我々が戻ると、わら半紙の袋入りのものを売っている女性に出くわした。彼女からこの紙袋をいくつか買った。するとすかさず彼女が鐘を鳴らす。と、神社に住み着いていた鳩がその音を聞きつけるや、巨大な大群となってやって来て、それらを食べた。
 午後、その土地のまだ行っていないところを見て回った。住民のほとんどが漁師であることがわかった。その日、たくさんの旅人がいたし、それ以外の人もいた。その翌日、別の神社に向かった。そこには神聖な2頭の馬がいた。10人の男たちがその2頭の世話をしていた。その神社の前でブロンズ製の大きな馬を見た。綱で繋がれている。彼らの信仰によれば逃亡の恐れからであるという。また彼らによれば、神に仕える馬(1)は白い色を持たなければならないという。元の色がいかなるものであったとしても。

(1)神に仕える馬|厳島神社に神の乗り物として奉納される馬(神馬・しんめ)は、最初は茶色の毛であったものが、飼っているうちに白くなっていったという伝説がある。今は、生きた馬の代わりに造り物の白い馬が置かれている。

 この神社を訪れたあと、それ以外の神社に向かった。そこには大きな広間(1)があった。壁には釘で留められた幾千もの木製の札(ふだ)が掛けられていた。その札には日本の文字で、あるいはそれ以外の文字で、名前が記されていた。かれらの信仰からすれば、自分の名前を書いた札を奉納すれば、たとえば、戦争に向かう人であったり、旅人であったり、商売で移動する人たちであったり、そうした人たちが万が一危険な目にあったとしても、間違いなく安全に、成功裏に、そして無事戻ってくることができるのだ。
 彼らは私に1枚の札を買うように求めた。で、私はそこに自分の名前と日付をしるした。祝福されんことを祈ってそれを奉納した。そのことに抵抗はなかった。20銭だった。
 日本人から奉納された札は大切に扱われているように見えた。それ以外の札については、あとで取り去ってしまうようだ。冬がやってくると、自分たちのための燃料にしてしまうのだ。うまく利用している。でなければ、こうした木札が何年も何年も長い間残るようなことになれば、置き場所がなくなってしまう。たとえ1枚の上にまた1枚と重ねて置いたとしてもだ。

(1)大きな広間|千畳閣(豊国神社)であろう。1587年豊臣秀吉が建立した大経堂。畳千畳(実際は畳857枚分)ほどの広さを意味することから「千畳閣」と呼ばれた。壁面には奉納された絵馬が無数に掛かっている。

 その日、新聞を眺めていると、そこに茶道具一式が2500ポンド(1)で売っているのを見つけた。昔のインク壺(墨壺=矢立)もあった。200ポンドである。以前にも述べたが、これらは京都の寺院のものである。こうしたものは、いわれるような金額に見合った値打ちがあるとはとても思えないが、彼らは神社への寄進として、また神社への崇拝の念と奉仕の精神でそれらを買い求めているのだ。

(1)ポンド|当時のエジプトは、オスマン帝国の属国でありながらアリー朝においては、独自の通貨制度が確立していた。ここでのポンドはエジプトポンド(junayh、複数形はjunayhaat)であろう。金本位制に基づいて、1エジプトポンド=0.975英国ポンドの固定相場制であった。当時のポンドを今の価値に置き換えるのは至難であるが、「ヴィクトリア朝の1ポンドって日本円でいくら」という情報があったので紹介すると、当コラムの筆者は「2.5万円〜5万円ぐらいの幅」で考えている由。(参考=https://spqr.sakura.ne.jp/wp/archives/827)。となると、茶道具一式が6000万円から1億円を超すようなとんでもない金額になってしまう……。
 前掲書『英国人写真家の見た明治日本』に、当時欧米で高く評価されていた京都黒田の象嵌細工の工芸品についてポンドでの記述があった。「戦う二羽の闘鶏とかを浮き彫りの象嵌にした、四分の一のシガレットケース」「細工の特に優れた品物」で、購入者にとっては「永遠の喜び」となる一品が、10ポンド(訳者註=英国ポンド)とある。約25万〜5
0万円。これであればなんとなく現実味を感じる値段ではある。この記録は20世紀初頭のことなのでほぼアリー公と同じ時期だ。上記、茶道具一式、インク壺の金額は、あきらかにケタ間違いなのではないかと推察する。

・広島(宮島)編の【後編】は後日アップの予定です。
神戸編はこちらです。