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イスラーム文化 その根底にあるもの ■井筒俊彦・岩波文庫・1991年■ |
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「米教会コーラン焼却計画」という報道があった。アメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、9.11テロの9周年にあたるこの9月11日に、イスラームの聖典コーランを燃やす行事を計画しているという記事である(2010.9.8・朝日新聞夕刊。二転三転して今のところは「延期」ということらしい)。 「邪悪な宗教」であるイスラム教への抗議と、イスラム教の危険性についての啓発活動の一環として考えているという。 コーランのどこにその「邪悪」やら「危険性」を感じ取ったのか、私には理解できない。「コーランを読んだことはない」と当の牧師は語っているそうで、ただたんなるバカなやつと片付けてしまってもいいのだが、こういった偏狭さ・不寛容さが、キリスト教圏を中心にひろく浸透しつつあることにいやな時代を感じる。 イスラム圏の女性が身に纏う「ブルカ」と呼ばれるヴェールの着用を禁止するといった法案がベルギーやフランスで可決されている。フランスでブルカ姿はせいぜい数百人から2000人程度だそうだが、数が問題でないところに問題がある。スイスではモスクの尖塔(ミナレット)を新たに建設することが法律で禁止されたという。欧米世界に広がるイスラームに対しての不寛容と嫌悪感。ハンチントンの「文明の衝突」という概念そのままに回収される現状である。 「剣かコーランか」というフレーズが、学校の世界史の教科書にも記載されており、イスラームに好戦的なイメージがついて回っている。 日本の元祖・イスラム学者である大川周明は著書(『回教概論』ちくま学芸文庫)で「(キリスト教徒の歴史家が)回教の弘布は専ら『剣か古蘭か』と呼号せる戦士によって成されたるものと誤り伝えて以来、マホメットの宗教は主として剣戟の力によって弘められたるものの如く考えられている。但し広く世間に流布せらるるこの思想は、明白に誤謬である」と述べている。歴史的に政治的拡張は武力による発展ではあったが(歴史上、武力以外の手段をもって政治的拡張をなしえた集団はない)、その宗教的発展は迫害強要によるのもではなかった。その根拠として、モンゴルやトルコはイスラム圏を征服しながら、宗教は被征服者のもたらしたイスラームを信ずるに至ったことを挙げている。イスラームの拡大は、その信仰の純一、教義の簡素、伝道者の熱心、および当時の社会的混乱に、その原因を求めている。 もともとイスラームは平和の宗教である、なんてことをいうとナイーブに過ぎるとの誹りを受けそうであるが、イスラム社会に形成された「ウンマ」という共同体に注目したい。国家という枠を超えて、同じ信仰に生きているという宗教的連帯意識に基づいた信仰共同体のことである。こうした共同体の成立をみて、血縁に基づく部族的な連帯性を無効にしていった。イスラームによってまったく新しい社会構成の原理を打ち立てたわけである。 戦前、こうした民族や部族を超える構成原理に注目して、大川周明は、大東亜共栄圏を構想した。ただイスラームに代わる原理として日本の国体をもってきたところに、国家主義者、ウルトラ右翼のレッテルがいまもってはがれない。普遍原理を獲得しようとして国家原理に帰着してしまった哀しさである。 「大川周明はイスラム教に、『民族国家』に下属しない宗教の原像をみた。そのことによって、東西文明を現実的に超越しているイスラム文明に注目したのである。この『イスラム』のもっている文明史的意味を、日本が代わってもつことができたなら……。これが、大川の『可能性のアジア』としての日本、ということではなかったろうか」(『大川周明』松本健一著・岩波現代文庫) 国民国家・民族国家を超越した統合原理をウンマは内包している。ナショナリズムに掬われた民族集団がその境界を超えていかに共存していくかが今世紀最大の課題であるならば、そのヒントはイスラームにあるように思う。今こそイスラームなのだ。 というわけでイスラーム入門の決定版として紹介したいのが、今回の『イスラーム文化 その根底にあるもの』。だれもが納得する名著中の名著。講演録をもとにまとめられたものであるせいか、語り口はやさしく、論旨は明快で読みやすい。一流の学者による、押さえるべきところはきちんと押さえれらた「イスラーム原論」である。ちなみに著者の井筒俊彦は大川周明のもとでイスラームを研究していた。 2010.9.11(か) |
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