旧著探訪 (16)

 イスラームの日常世界   ■片倉もとこ著・岩波新書・1991年■ 
 9月に出た新潮新書『社長、その服装では説得力ゼロです』(中村のん)はなかなか刺激的なタイトルである。「人は意外なほど、自分の姿が見えていない」というキャッチは、たしかにその通り。その通りではあるが、人間たるもの、そもそもそういうふうに構造化されているもんじゃないのか、と開き直ってチャチャを入れたくなる自分がある。
 というわけで、当然、私はいたって服装センスがない。野暮である。身をかまうことがうまくできない。
 私のシャツとズボン姿に、娘からは「そのインはないわぁ」、息子からは「けっ、インかよー」と馬鹿にされる。この「イン」というのは、説明しておくと、シャツのすそをズボンの中に入れることをいう。英語の前置詞 in ですな。シャツのすそをズボンの外に出してる若い人、多いでしょ。あれじゃない様を蔑む表現である。つまりダサイというわけ。
 いちおう父親としてこの表現が正しいのか、気になった。前置詞は into ではないかと愚にもつかぬことがここ何カ月も気になっていたのだ。が、過日、英字新聞社に勤めるH女史からご教授願うことができた。
 《 tuck in 》
 さすがに、たちどころに答えてくれた。
 説明によると、「 in が自然だと思う。『ちゃんとしなさい!』と子どもを叱ったりしながら、無理にすそを中に入れさせようとするときは into と言えなくもないけれど」であった。in でよかったのか……。私は駄々をこねるような子どもではないのだし。
 私の場合、シャツのすそをズボンに差し込むのは、お腹が冷えるからである。正確にいうと、お腹を冷やしてしまいそうな不安に駆られ、落ち着かないからである。だから私は、パジャマは絶対に in である。
 一昔前のおっちゃんたちは、年がら年中、腹巻きをしていたものだ。炎天下の真夏日でもステテコに腹巻き姿のおっちゃんをよく見かけた。エラソーに町を闊歩していたが、みんな内心では、お腹の冷えを心配していたのだ。そういう時代だった。
 さて、時代は変わり、今では寒風吹きすさぶ冬日であってもおかまいなしに、おへそを見せて闊歩する女の子に遭遇することがある。「へそ出しルック」ですな。私はそんな女の子とすれ違うたびに、心底「えらい!」とひどく感動する。おへそを見せることがえらいのではなく、お腹をこわすかもしれないという高いリスクを冒しても、ファッションにこだわるその心意気に感動するのだ。
 さて、さて、前置きが長くなってしまった。今回はイスラムの女性ファッションについて書こうと思っていた。この『イスラームの日常世界』を読んで、目から鱗が落ちるところ、多々あったからである。著者はかの地に暮らした女性ゆえに、男性では容易にはうかがいしれない女性事情がリアルに描かれていて、とても興味深い一冊となっている。
 イスラムの女性がかぶるベール。イランではチャドール、サウジではタラハ、エジプトではヒジャーブというそうであるが、どれも一般的に「イスラムの後進性を象徴する」ものとして西側では捉えられている。女性が抑圧され、いまだ解放されていない、という否定的な見方だ。
 しかし、これは一面的で、逆に西側諸国の女性より解放されている部分も多いのではないか、というのが著者の見立てである。
 顔をベールで覆うことで「容姿の美醜が女性の価値基準といった、男性側の眼(商品化・付属品化)からの自由」を獲得した女性像が浮かび上がってくるのだ。
 そこには、「容姿だけで判断されることをきっぱり拒否して、中味で勝負」の実力本位の社会が現出する。著者は、ベールが女性の社会進出を促している側面をさまざまな事例を通して指摘している。
「見られる女」から「見る女へ」。「見られる自分」から「見る自分」への関心の移行。立ち位置が変わることで、知力や能力、体力といった実質的な力を求めることになるわけだ。美人だからって、だれもちやほやしてくれないんだぞ。
 そもそもイスラム社会は伝統的に「美」よりも「知」を貴きとす。「知(知識・学問)」に一番の価値を置く。アラビア語で「イルム(知る)」というらしいが、「人が生きているあいだになさなければならないことは『イルム』を求めること」がイスラムの教えとなっているそうだ。人の価値は美醜貴賎ではなく「イルム」を持っているか否か、その一点だけ。
 能力主義という言葉が、デフレ基調になってから辻褄を合わせるように、経済合理性と表裏一体となって使われ出した私たち社会とは大いに違う。イスラームから導かれた筋金入りの能力主義社会である。「古く装えども新しき女」の颯爽と生きる姿が見えるではないか。
 2009年11月8日(か)
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