近著探訪(15)

 にいちゃんのランドセル 
     ■城島充著・講談社・2009年■
「ライター」と「作家」はどうちがうのか──。大阪編集教室という編集者・ライターの養成講座を運営していて、そんなことをふと考えることがある。
 立場上、講師として出講願っている新聞社系・雑誌系・広告系などのあらゆるジャンルのライターの方々と顔を合わせる。私自身もすべての授業に教室後部席で参加している。みなさん、「達意の文章」を書くためのさまざまな技術と方法を開陳してくださる。さらには、読み手が読後「面白かった! 得した!」と思ってもらえるような作品に商品化するためのプロの視点を伝授してくださる。つまりは「読んでもらってナンボ」の文章術・編集術である。
 文章表現で、いわれるところの5W1Hは基本である(当教室では関西ジャーナリズムの現場として5W2Hとなる。つまりHow muchも)。念のため列挙すると、いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように・なんぼで、が5W2H。
 そのなかで読ませる文章にするための最大のポイントは「なぜ」への書き込みにあると複数の講師が口をそろえる。「なぜ」がきちんと書かれることで文章は重層的になってくる、と。ほんとにそうだなあと私は後部席で深く納得している。
 さて、しかし、だ。「なぜ」と問われてその回答がすんなりあることのほうがめずらしいのも、これまた世の常である。
 過日(09/12/23)の朝日新聞社会面で、─「薬間違っていたやろ」堺の薬局に強盗 32万5千円奪う─というベタ記事に目がとまった。
 記事によると、─「薬が間違っていたやろう」と薬局に入り、経営者らに拳銃のようなものを突きつけ、「金を出せ」と要求─とあった。
 笑える記事である。それはないぞ!?とつっこみを入れざるを得ない。薬の間違いがその薬局に押し入る理由ではないことは誰しも容易に想像できる。といって、この手の記事はこれ以上もこれ以下も書きようはないからそれでじゅうぶんなのだけれど、もしこの事件を報道記事ではなく作品に仕立て上げるとしたら、「なぜ」が「薬間違い」ではちと困る。もしかりに、この犯人に「なぜ」を取材できたとしても、ひょっとしたら、原稿用紙数百枚を費やしても「なぜ」が突き止められないかもしれないと思うのだ。
 因果律ですべてがわりきれるものじゃないことは、大人なら経験的にわかっている。自分のことも、他者のことも、森羅万象は、その根源に近づけば近づくほど、その起源は闇に消えてしまう。すべてが不条理に成り立っている。それでも「なぜ、なぜ、なぜ」と問いかける。いくら問いかけても答えてくれない。それが冷徹な現実世界である。大人になるということはその不条理を引き受けていくプロセスにあるといえるだろう。それでも確かな「なぜ」をおさえるべく、一歩でも真実に近づくために、書き手は稿を重ねる。重ねざるを得ない。重ねても重ねても手からこぼれ落ちてしまう。これが「作家」の仕事ではないか。そう考えている。
『にいちゃんのランドセル』の著者は城島充氏。城島氏はスポーツ誌「ナンバー」(文藝春秋)をおもな舞台として活躍するスポーツライターである。いっぽうで単行本『拳の漂流』『ピンポンさん』(ともに講談社)などのノンフィクション作家でもある。大阪編集教室の講師としても授業を担当してもらっている。この場合、「ライター」として、といったほうが適切なのだろうか……。
 城島氏に「本の世界へ」というコラム記事(07/12/30神戸新聞・共同配信)がある。そのなかで愛読書として『井上靖全詩集』(新潮文庫)を取り上げていた。作品のひとつ「元氏」という、戦場でついさきほどまで語り合っていた戦友が一瞬にして死んでいく悲しみをつづった一節が紹介されている。
 孫引きすると、 「激戦─そんな濁った騒がしいものは微塵も起こりはしなかった。運命の序列、そうだ、われわれが持っていてしかも知らない己が運命の序列を、仮借なくつきつけて見せるひどく冷たいものが、あの夜の闇の中を静かに、だが縦横に走っていたのだ」。
 城島氏は産経新聞社会部の出身である。阪神淡路大震災の現地で「がれきの下で絶命した七歳の少女の遺族に寄り添い、一命をとりとめた老婦人の涙にふれながら、<運命の序列>という言葉が頭から離れなかった」と書いている。
「運命の序列」、背後を静かに、縦横に走る「ひどく冷たいもの」。それこそが「なぜ」と問いかけても、答えがないものだ。不条理な現実を成り立たせている元凶である。私はこのコラムを、城島氏が「作家」として「運命の序列」に真正面から挑む宣言文として受け取った。
『にいちゃんのランドセル』は、阪神淡路大震災で住んでいたアパートが全壊し、7歳の息子と5歳の娘を亡くした、当時芦屋市在住の米津さん一家の震災直後から15年の歩みを記録したノンフィクション作品である。表題の「ランドセル」は震災後生まれた弟が亡き兄のランドセルを背負って小学校に通う、未来につなげる象徴的なメッセージとなっている。
 さて、本書にはたくさんの「なぜ」で溢れている。
・なぜ、あの日、布団を並べる順番を変えたのか。
・となりに寝ていたのに、どうして守ってやれなかったのか。
・なぜ、あのとき、違う土地のマンションに引っ越しを決断しなかったのか。
・幸せな毎日がある日突然、一瞬の揺れのために崩れたのはなぜか。
  ……。
  答えのない「なぜ」。 わずか十数秒の揺れで6343人が命を落とさねばならない不条理に答えはない。「運命の序列」。それをどう引き受けていくのか。残された者は、どう生きていくべきなのか。答えのない「なぜ」をひたすら追いかけながら、著者はたんねんに米津家の日常を記録していく。「なにげない日常のひとこまや、けっしてめずらしくないものが、あとになって特別な意味をもってくることがある」。しかし、それは不可逆で、非情にも決して核心にたどり着くことはない。それでもひとつひとつの事実を積み重ねていくことでしか、私たちの命のつらなりを記録することはできない。
  当事者に成り得ず、静かに見守るしかない私たちは、一家が未来に向けて踏みだそうとする、その時間の流れに、生きる意味を見出し、強靱さを確信し、希望を共有する。 児童書ではあるが、大人にも読んでほしい一冊である。
2010.1.1(か)
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