旧著探訪 (32)

 バルバリア海賊盛衰記  ■スタンリー・レーン・プール著・前嶋信次訳・リブロポート・1981年■ 
    ほか海賊の本2冊『村上海賊の娘』『ローマ亡き後の地中海世界1』
バルバリア海賊盛衰記

村上海賊の娘

村上海賊の娘

ローマ亡き後の地中海世界
 私の母は「海賊の娘」であるらしい。母の旧姓は「まなべ」というのだが、とある会合で同席した年配の女性が、「まなべ」さんだったことから会話が始まり、「じゃあ、お母さん、海賊の末裔ね」と言われたのだった。聞くと、「まなべ」一族は瀬戸内海に浮かぶ真鍋島(岡山県笠岡市)をルーツとする海賊だったという。しかも「まなべ会」という団体があり、全国のまなべさん(真鍋、真辺、真部、間部、間鍋……と表記はいろいろ)が年に一度「先祖祭り」という懇親会を開いて交流している。ホームページ(全国まなべ会)によると、1981年発足で、会員数約3000人、北海道から九州までの20都道府県に支部が組織されている。姓が同じというだけの入会条件で発足した、全国規模の親睦団体というのもかなり珍しいのではないだろうか。のちに母から聞くと、母の従兄弟にあたる人物がとある支部の会長職にあった。
 このことを知ったのは数年前のことであるが、ちょうどその時期「2014年本屋大賞」を受賞してベストセラーになっていた『村上海賊の娘』(和田竜著・新潮社・2013年)を読んだ。毛利方についた主人公・村上海賊(伊予能島)に敵対する役回りとして描かれるのが、織田方につく眞鍋海賊(泉州淡輪)である。血湧き肉躍る、大迫力のスペクタクル時代劇にまさに巻を措くあたわずの勢いで、大いに堪能したのだった(本屋大賞ははずれがない!)。ああそうか、あのご婦人もこの本が話題になっていたから「まなべ=海賊」を口にされたのだろう。
 さて、そういった因縁もあり、以来「海賊」というワードにはすこし敏感になっている。ここで取り上げるのは「バルバリア海賊」。16世紀から19世紀半ば、おもに北アフリカのチュニスから以西の地中海沿岸(バルバリア海岸)を拠点にして暴れ回った、イスラーム教徒の海賊のこと。「バルバリア」という呼称は、この北アフリカ(マグリブ)一帯に住んでいた「ベルベル人」に由来する。
 その昔、ギリシア人は他民族を「バルバロイ」と称した。その意は「訳のわからない言葉をしゃべる輩」。英語のbarbarian(野蛮人)の語源であるそうだが、ベルベル人はこのギリシャ語のバルバロイから派生した言葉だろう。
 かつて、今のスペイン(イベリア半島)はイスラーム圏であった。しかし、かれらムスリム(イスラーム教徒)たちが地中海に乗り出して狼藉を働くようになったのは、本書によると、レコンキスタ(1492年)以降のことなのだそうだ。キリスト教徒が巻き返してグラナダが陥落すると、ムーア人(イスラーム教徒)がイベリア半島から追い出される。そして住み着いたところが北アフリカ沿岸であった。そのかれらが捲土重来を期してスペインの海岸一帯に攻め込んだのがはじまり。なんせ、その地は勝手知ったるところ。しかもキリスト教に改宗した、モリスコと呼ばれる元イスラーム教徒(実際は隠れムスリム?)が息をひそめて暮らしており、かれらの手引きも大いにあって(198頁)、濡れ手で粟とばかりの略奪行であったようだ。
 こうしたローリスク・ハイリターンの業態がひろく知られるようになると、海賊業に就こうとしてイスラームへ改宗するキリスト教徒が多々見られたという。実際海賊船の乗組員全員が元キリスト教徒というケースもしばしばだった(197頁)。就労人口が増えるにつれ、活動する舞台は地中海全体におよび、さらには西アフリカ沿岸にまで広がっていく。
 そのうち海賊業が北アフリカの地場産業化してくると、海賊行為そのものが私略行為から公的・合法的な行為となってくる。のちに一国の海軍の一翼を担うほどの存在にもなっていった。もはや「海賊」という一語ではくくりきれない。
 塩野七生著『ローマ亡き後の地中海世界1』(新潮文庫・2014年)は、7世紀半ばから11世紀あたりの地中海東部をおもに舞台にした、サラセン人(イスラーム教徒)の海賊を描く。本書によると、「海賊」と訳される、英語でいえば二通りの表記について次のように述べる。
 一つは、pirates(パイレーツ、伊語でピラータ)。こちらは「非公認の海賊」。つまり私略行為を専門とする。今ひとつは、corsairs(コルセーア、伊語でコルサロ)。こちらは公認の海賊。公益をもたらす海賊というわけだ。『バルバリア海賊盛衰記』の原題も「The Story of the Barbary Corsairs」だ。略奪した財の一部は宗教共同体や国家に献納することがルール化していたし、相手国で奴隷になっていた同胞の解放にも一役買った。が、そうした大義あるコルサロではあったが、その帰路にはピラータに豹変し、海沿いの町や村を襲って略奪を繰り返し、住民をとっつかまえては奴隷市場に送り込み、悪逆非道を尽くした。そうした例は数え切れないのだそうだ。だから公認・非公認の別はそれほど明瞭ではない。
「日本語には、ピラータとコルサロのちがいもなくただ海賊という一語しかなかった」、それは「日本人がローマ人並みの法治民族とはとても言えない以上」、「つまり日本人にとってはピラータのみであったのではないか」と塩野氏は述べる。なるほどな、とは思ったのだが、はて、さて、「水軍」というのがあったゾ。
 ただ言葉としての「水軍」は江戸時代以降の呼称らしく、古文書には登場しない。しかしながら、私略一辺倒の狼藉者ピラータから、組織化され公的部門に比重のかかってきたコルサロ的海賊への変遷の歴史が日本にもあり、その新たな形態を表現するのに「水軍」という呼称を生み出してきた経緯があった。たとえば、村上海賊(村上水軍)にしても私略行為を専らにしていたわけではなく、ふだんは海上で通行料を徴収し、そのかわり航行の安全を保証するとか、自領海を越えて別の海賊が縄張りとしている領海へと乗り出す船に同乗してやることで通行手形のような役目をはたした(「上乗り」というそうだ)。海上交通の治安維持に貢献したわけだ。請われれば戦国大名公認の海上部門を受け持つ兵士としても働いた。まさにコルサロ的存在であり、これをたんに「海賊」と表現するにはさすがにためらいがあったようなのだ。
 私の母だって、「海賊の娘」といわれるより、「水軍の娘」といわれたほうがうれしがるだろうな。2017.10.29(か)
■旧著探訪(31)へ

トップページ刊行物のご案内リンクと検索