旧著探訪 (27)

 来て見てシリア         ■清水紘子著・凱風社・1998年■ 
 書名の呼びかけにはもう応えられそうにもない。シリアへ行きたしと思えどもシリアはあまりに遠し……になってしまった。
 2011年3月に始まった戦乱で世界最古の都市ダマスカスも、これまた世界最古のスーク(商店街)を誇る交易都市アレッポも、報道で知るかぎり激しく破壊されてしまった。イスラーム独特の伝統経済システムをフィールドワークした書、『商人たちの共和国』(黒田美代子著・藤原書店)で、魅力的に描かれていた、したたかでありながらも優雅で洗練された、あのスークに生きる商人たちは、この戦火を生き抜いただろうか。あるいは何百万人ともいわれる難民の一人となって近隣諸国へと、ヨーロッパへと、逃れていったのだろうか。
 そもそもの始まりは、いわゆる「アラブの春」だった。2010年12月、人知れず、といっていいほどに当初世界は注目していなかったチュニジアでの民主化運動が、中東の国々にあれよあれよという間に飛び火し、シリアでも民主化要求デモが発生する。
『「アラブの春」の正体』(重信メイ・角川書店)によれば、きっかけは「子どもの落書き」だったといわれる。アサド政権批判の落書きをした子どもたちが秘密警察に連行・「拷問」され、一晩留置所に放り込まれた一件で、市民からやりすぎだとの抗議の声があがる。そこから父子二代にわたるアサド独裁への積もり積もった不満がふつふつと燻りだした。最初の頃、民衆からの民主化要求に対して政権側は譲歩的な姿勢を見せていたらしい。しかし、欧米メディアの報道が加熱するにつれ、それに煽られるかのように反政府運動は激しさを増していく。と、一方、政権側も態度をいっきに硬化させ、反政府勢力地帯への空爆、自国民の殺戮が始まり、いよいよ後戻りできない内戦状態に追い込まれていったのだった。
 そこには「民主化」というお題目から乖離して、欧米、トルコ、ロシア、イラン、サウジなどの大国の政治的思惑が戦乱に火をくべることとなり、アラウィ派(シーア派)とスンナ派の宗派問題、そして世俗主義か、サラフィ・ジハード的イスラームか、といったさまざまな対立軸が持ち込まれ、さらにはクルド独立運動がその間隙を縫って燃え上がり、「カリフ」を戴いたイスラム国の暴力が燎原の火のごとく広がっていく。おそらくは政権を転覆させようなどとは考えてはいなかったであろう反政府運動が、いつの間にか凄惨な殺し合いの場と化してしまったのだった。さきほどの『「アラブの春」の正体』によれば、「自分たちの運動がハイジャックされたような気分だ」と。解決の糸口はそう簡単には見つかりそうにない。
 テレビや新聞のニュースで毎日のように取り上げられるシリア報道であるが、実際のところ現地にジャーナリストがほとんど入っていないので何が本当なのかうかがい知ることは困難だ。これまでもスマホで攻撃現場を撮影し、「××側の砲撃によって破壊された」とキャプションがつけられた動画や写真が何の裏取りもなくネットを通じてそのまま全世界を駆けめぐる。そしてそれが「事実」となってしまう。(独裁政権下といわれるのに通信網は西側諸国と変わりなく、何の制限もなく全くのオープンであることにすこし驚きを持つ。)
 さて、欧米メディア、およびそれに追随した日本のメディアでは、自国民を殺戮してきた極悪非道のアサド政権は、シリア国民にとっては絶対に許すことのできないものとして、イラクのフセイン大統領や、リビアのカダフィ大佐のように抹殺すべき対象として捉えられている。そうしたおびただしい報道に接するなかで、アサドはそれほどに嫌悪されていた政権だったのか、このあたりの真相が、錯綜する情報の中ですっきりみえてこないのだ。アサドを擁護するつもりは毛頭ないし、しかもこういった物言いは、多くの情報通から言下に否定されるものであることは重々承知している。たとえば内藤正典先生は「中東の秩序維持にはアサド政権が必要だと主張するのは曲学阿世の徒」とツイートされていた(2016.2.9)。
 あえて批判を受ける覚悟で素人の印象を記すと、昨年末に放映されたNHK「密着シリア難民 4000キロの逃避行」や、今年とあるイベントで見た「目を閉じれば、いつもそこに─故郷(ふるさと)・私が愛したシリア─」(藤井沙織監督・2015年)などのドキュメンタリーに登場するシリア難民へのインタビューでは、ほとんどの人が内戦前の暮らしを「幸せだった」とコメントしている。生きるか死ぬかの空爆の日々からすれば当然そう答えるにちがいない。そのとおりなのだが、「幸せだった」との言明に、非道な独裁者アサド像をうまくイメージできないのだ。
 じつは内戦前のシリアの生活事情を感じたくて、この『来て見てシリア』を手にした。シリア留学記である。当然であるが、一留学生の立ち位置からは「圧政」を実感することは無理な話であった。唯一滞在ビザの延長が理由なく拒まれたエピソードがあったが、それも第三国にいったん出国することで難なく解決している。ヌクタといわれる、政治や社会を風刺する小話がさかんな様からソ連時代のアネクドートを連想するがそれがどれほどに過激なものなのかは書かれていない(「相当アブナイ内容のものが多い」との一文があるので、おそらくは書けない?のかもしれない)。ともあれ独裁政治下の息苦しさ、秘密警察の恐怖といったものは感じ取れない。アラビア語やイスラームの勉強に邁進する著者の真摯な姿勢とシリアへの親愛の思いが伝わってくる素敵な一書であった。登場するシリアの人たちも生き生きと描かれている。
 読後、著者の清水紘子氏が昨今のシリア情勢にどのような思いをお持ちなのか──。フェースブックであったりツイッターであったり、何らかの発言をされているだろうとネット上を探してみたが、その片言もなく見事に肩すかしを食った。その、あまりに「見事な沈黙ぶり」にある種の強い意図を感じるほどだった。

「不正義はあっても秩序ある国家と、正義はあっても無秩序な国家のどちらかを選べといわれたら、私は前者を選ぶであろう」。マキャベリの言葉だそうだが、「アラブの春」を振り返るとき、この一節に強く共感してしまうのである。 (か)2016.5.7
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