象の旅 ■ジョゼ・サラマーゴ 著/木下眞穂 訳/書肆侃侃房/2021年■ |
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"the elephant in the room"という言い回しが英語にあるそうだ。 「部屋に象がいる」。この部屋に集っている誰にとっても(象がいることは)周知の事実ではあるけれど今この場でそれには絶対触れちゃあいけない、そうしたタブーを意味するらしい。たとえば同窓会の集まりなどでつい最近離婚した女性がいたとする。その場では「離婚」をテーマにしない。気まずい話題をさける。彼女の「離婚」はみんなにとって過剰なほどの話題性をもつものであるのだけれど、ここに踏み込むと「場」が凍りつく。好奇の心根を押し殺し口を閉ざすべきなのだ。しかしながらそのトピックの持つ祝祭性は見て見ぬふりをしてやりすごすにしては、あまりに強烈すぎる。そうした過剰さを表象するには「象」という規格外に巨大な存在でなければとても引き受けきれないということであろうか。 1551年、ポルトガル国王ジョアン三世からオーストリア大公マクシミリアン二世へ婚儀のお祝いとしてインド象が贈られることになった。本書『象の旅』は、その象とインド人の象遣い、護衛の騎士団、象のための飼葉と水を運ぶ荷車隊からなる一行(途中から大公夫妻も加わる)の、リスボンから雪のアルプスを越えてウィーンまでの、ロードムービー風の物語である。 「日常に象がひょっこり現れるなんて、そうそうあることではない」。象の一行は沿道の野次馬たちにいたるところで歓呼の声に迎えられる。この「象の旅」は史実であるそうだが、そうであればその旅程となった町々には今も語り継がれる逸話がたっぷりと残されているにちがいないだろう。しかしながら、ほとんど記録が残っていなかったらしい。だからなのか、象遣いにこうしゃべらせている。 「象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れ去られるんです。それが人生というものです、喝采と忘却です」「象と人間に関しては、そういうものですよ」と言いながらも唯一の例外としてインド人らしくヒンドゥー教のガネーシャ神を挙げるのだった。 練り物で造られた最初のガネーシャがパールヴァティ女神に生命を吹き込まれたものの、シヴァ神の怒りを買って首をはねられてしまう。しかしその首に象の頭を繋げたところ、ガネーシャは息を吹き返した。来歴をそう話す象遣いに、騎士団の一人が「作り話だな」と呟く。すると象遣いはこう言うのだった。 「そのとおり、死んでから三日後に生き返った人(イエス・キリスト)の話と同じですね」。「気をつけろ、言葉がすぎるぞ」と隊長が警告した。 象遣いは作家ジョゼ・サラマーゴの分身だ。随所にサラマーゴの無神論者としての真骨頂が炸裂する。 そもそも象の名前からして不遜だ。「ソロモン」である。旧約聖書の「列記王」に記される古代イスラエルの王。史実どおりの名なのか、作家の創造なのか。さらにそれが途中から物語では大公によってイスラム風の呼称である「スレイマン」に改名される。時代背景からすれば東方で敵対していたオスマン帝国の10代皇帝の名をなぞったか。 ときにカトリックが重宝する「奇跡」創造の舞台裏を描く。プロテスタントの勢力に一矢報いるためにカトリック側は民衆を圧倒させる「奇跡」を今まさに必要としていたのだった。「ルターだ、あやつは死んでなお我らが聖なる教会に大きな打撃を与えているのだ」。そこでカトリックの神父は、象が恭しくアントニオ大聖堂の前で跪く「奇跡」を画策する。神父からその「演出」を依頼された象遣いは調教に精を出すのであった。これが成功すれば、「われらの時代の大きな奇跡の一つとなろう」とのたまう神父に象遣いはこう応えるのだった。 「わたしが思うに、世界のすべてが創造された、それが総じて一つの奇跡であり、それで奇跡は終わったのではないでしょうか」と。「さては、お前はキリスト教徒ではないな」「告解をせねばならぬぞ」と神父は威圧するのだった。 こうした辛辣なキリスト教批判や皮肉たっぷりのおしゃべりが全編に散りばめられている。この作風ゆえに、なにかとポルトガル国内では物議を醸してきた。『イエス・キリストによる福音書』という作品ではイエスを生身の人間として描いたことから、教会関係者の逆鱗に触れ、事実上禁書扱いなのだそうだ。著者はポルトガル語圏では初のノーベル文学賞受賞という栄誉に恵まれながらもスペインに移り住んでいる。 「訳者あとがき」で告知されているが、「ジョゼとピラール(Jose e Pilar Japanese Subtitles)」というタイトルで作家サラマーゴの日常を追いかけた、興味深いドキュメンタリーフィルム(約2時間)がYouTubeで公開されている(ピラールとは妻の名前)。このフィルムを見れば作家サラマーゴの無神論者ぶりは斟酌なしで、徹底的に直截的だ。 「教会へは6歳のとき行った。嘘ばかりだと思い、母に言った。もう行かない」「それっきりだ。何の不足もないし、死も怖くない。地獄も永遠の罰も怖くない」「全くの大ぼらだ」「悲劇的な狂言だ。神はどこにいる? 天国と言ったものだが天国などない。どこにもいない。ただの空間だ」「未来永劫、神を信じない」 ここまで言うかっ!というほどの激しい発言にあふれている。 読者からの便りが紹介されていた。「異端審問があったら、あんたが火あぶりになるのを見に行ったのに」。クリスチャンでない私であってもその気持ちはわからないでもないと思えるほど。 衆人環視のもとエレファントが同行し「部屋の中」にどーんといるはずなのに、それどころじゃなくて、象よりもかえって「場」のほうが過剰に賑やかなのがこの作品の魅力かもしれない。ほんらい象が受け持つべき「過剰さ」を、サラマーゴの語りの一つ一つがそれ以上に、規格外の「過剰さ」をもって迫ってくるのだ。象に表象されねばならないようなタブーは、この段にいたっては、もうない。象はいない。 数千キロを歩き通してウイーンにたどり着いた象は、その2年後に死んだ。その皮は剥がされ、前脚は切り取られて鞣され傘立てとして宮殿の入り口に備え付けられたという。 「結局、人生に特別な意味などないのだ。実に哀しい最期だ」 2022.4.3(か) |
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