近著探訪(36)

 ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 
 ■松尾 匡 著・PHP新書・2014年■
 今年(2014年)4月に消費税が5%から8%になった直後の第1四半期(4月〜6月)で、GDPが年率にしてマイナス7.3%という歴史的な落ち込みを記録し話題となった。1997年の3%から5%への税率アップ時を振り返れば、90年初頭から失速気味であった日本経済は、それを機に真正デフレへとまっしぐらに堕ちていったと記憶している。不況下での増税がプラスにはたらくはずがないのは当たり前、ではある。
 そしてこのたびの第2四半期(7月〜9月)は、さらに落ち込んで前期比年率マイナス1.9%。私の肌で感じる実感とも合致するんだけれど、なんとマイナス予測をしたエコノミストは一人もいなかったらしい。4月〜6月の反動でプラスに転じるとの見立てであったとか。外に出て世の中の空気をすこしは肌で感じればわかりそうなものなのに、感度悪すぎ! エコノミストたちは「マイナス」で驚愕したらしいが、こっちはあんたたちの鈍さに驚愕したぞ。
 こう感じた人も多かったのか、「経済統計、信用できる?」と題し、「最後は人が集計、大きな誤差も」という内容の記事が日経(2014.12.16)に掲載されていた。「入手可能な各種統計データを基に、内閣府の担当者が『推計』する」もので、その推計方法も公表されていないのではたして実態を反映しているのかどうかははなはだ疑問なシロモノらしい。ともあれ、経済活動全体を正確につかむことの難しさをうかがわせる記事でもあり、「速報値」の信憑性に疑念を挟む内容でもあり、つまりはエコノミストの弁明でもあった。数字も大切だけれど、いずれにせよ、もっと皮膚感覚を鍛えなきゃ。
 さて、さて。本書である。ケインズであり、ハイエクである。やっぱ大物経済学者の名前を目にすると、私は「エコノミスト」よりマクロのこっちが好みだなあと実感する。実際のところ、マクロにかかわったところで為政者でもないから影響力を行使できるわけでもなく、私の暮らし向きに何のプラスにもならないんだけれどね。
「もう経済成長なんて目指さなくてもいい。そんなことを考えるのは前世紀的発想だ」なんていう論調が一部の「文化人」から発せられている。そんなもんかなとも思うのだけれど、でもこれって「今」をかなり特殊な時代としてとらえているんじゃないのだろうか。気象庁お決まりの「これまで経験したことがない」というようなフレーズで括られる経済状況下に私たちは生きているという前提になっていませんか。
 本書で紹介されているが、1929年のニューヨークの株価大暴落で幕開けした大恐慌時代では、失業率が米国25.2%、英国15.6%、ドイツ17.2%と桁違いなものであったそうである。私たちはデフレ、インフレの大きな循環の中で歴史を刻んでおり、そうした歴史的時間軸で「今」を語るデリカシーがあってほしいと思う。つまりは「今」を相対化すること。もちろん人はそれぞれ具体的人生を生きているわけで、実際私は息も絶え絶えであるが、それでも「今」が歴史上前例のない特殊な時代であるなんて考えていない。いつか来た道であるにちがいないと思っている。だからこそ、ケインズやハイエクのような巨人が確立してきた経済学をもって「今」を読み解いてもらい、処方箋をひろく共有したいと思うのだ。「巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた」という少々長めの副題が附されているが、当然といえば当然、History repeats itself でありますから、「鍵」はすでに用意されているのだ。ただ適切・的確・素直に政策に反映させてこなかっただけでしょう。
 ところで、本書は、とくにケインズ、ハイエクだけに特化して述べられているわけではない。主要な経済理論を読み解きながら、求められるべき経済政策のあり方を検討しようとする内容である。ちょっとわかりにくいんだけれど、本書の大きな主張は、「リスク・決定・責任」の一致が、何ごとにおいても肝心かなめであるぞ、ということにある。コルナイというハンガリーの経済学者の理論から、ソ連崩壊の原因を探ることから説き起こされる。「リスク」のあることを「決定」する者が「責任」を取るということになっていなかったことが、崩壊の原因であった。平たく言えば「人のカネやと思うてええ加減なことばっかりして!」といいたくなるようなふるまいが随所で見られ、かつそれが許されてきたということである。そしてここから敷衍できることは、責任を取れない者がリスクの大きなことを決定してはならないということである。たとえば、行政は最終的に責任のとれないような大きなことはやっちゃだめよということ。地方空港の惨状は格好の例だ。役人が空港をつくろうなんて考えちゃだめ、閑古鳥が鳴くようなことになっても知らん顔でしょ。だからといって、民間の株式会社であれば責任がとれるっていうもんでもない。「決定」者は、決定のために必要な種々の情報にいちばん近い現場の人間がもっともふさわしい。かつその人間が責任をとれるということが肝要である。いったん事が起これば、保証債務とやらで身ぐるみはがされてすっぽんぽんにされてしまいかねない零細企業オーナーの「リスク」の負い方と、とりあえずは「進退伺い」ですんでしまう、大企業経営陣の「リスク」の負い方の違いに思いを致すとわかりやすいですね。
 この「リスク・決定・責任」を一致させていく路線は、著者・松尾匡先生のホームページ「現代アソシエーション論」を参考にすると、アソシエーションが中心となる社会を目指していくなかで、「開放社会を重視して市場の力を利用する、市民社会論的アプローチ」ということになるのだろう。(著者ホームページの「アソシエーション論」の項、ご参照ください)
 そしてこれら三つを一致させていくことこそ、経済学的にいちばん「効率的」ということになる。現在実施されている、あるいは、計画されている施策なり、制度なり、システムなり、巷間飛び交っている言説なりが、経済学的に真に「効率性」を担保したものなのかどうか、この〈一致ツール〉は示唆を与えてくれる。ちなみに「効率」の意味は「コスト削減」「安上がり」の意味じゃないので注意です。本書で学びました(251頁から参照してね)。
2014.12.28(か)
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