努力する人間になってはいけない ■芦田宏直 著・ロゼッタストーン・2013年■ |
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「脱・点数主義の罠」と題した朝日新聞掲載(2013年11月12日朝刊)のインタビュー記事は興味を引いた。哲学者・芦田宏直さんの主張である。これまでのペーパーテスト一辺倒の大学入試から人物本位の選抜を導入して入試の制度改革を図ろうとする教育再生実行会議(安倍政権が設置)の提言に対して、もの申すといった内容。 いわく、人物評価を入試に取り入れることは新たな身分制社会を生み出すことになると警鐘する。「点数評価こそが、格差の少ない民主的な社会を作ってきた」「人物本位とは『育ちの良さ』を見ることの言い換えでしかありません」 明治政府は近代化を急ぐなかで、福沢諭吉の『学問のすすめ』に象徴されるように、一所懸命に学問をすることこそが世の指導者として身を立てていくことになると、社会を制度設計した。以後、生まれや育ちに関係なく、一応は平等にチャンスは与えられることになった。江戸時代からの身分制社会に終止符を打つことができたとはいえるだろう。それは、今ではネガティヴな語感を持つ「学歴主義」の効用でもあった。今ならメリトクラシーといったほうが語感はよいかもしれない。芦田氏は「努力主義と言い換えたい」という。 しかしそれは、「ガリ勉」と呼ばれる、人間的に問題があると思われるような、人物育成に荷担するのではないかとの記者の質問に芦田氏は、 「点数という退屈なぐらい客観的な指標に向けて努力し、工夫することが真の自主性や個性を育てる」と返す。「陸上競技の選手たちが記録向上を目指すのと同じです」と。 たしかに、コンマ何秒に全人生を賭けてきた(あるいは、賭けている)、一流のアスリートたちがもつ凄みといったものに思いをいたすと、「退屈なくらい客観的な」数字に全力を傾注することで人はつくられていくとも思える。 いやぁー、おもしろい! じつは、この記事を読むまで、この芦田さんという人は知らなかったが、俄然興味が湧いてきた。早速手にしたのが本書である。「努力する人間になってはいけない」。……んっ! 「努力主義」こそが人格形成に寄与するところ大ではなかったのか! 本書の主張はこうである。 「努力主義は自己を変えようとしないエゴイズム」である。努力する人は謙虚なようであって、じつのところは自分に固執する偏狭な人間であると。 社会に出て一所懸命努力しても報われないことが多い。努力(=時間)をいくらかけても結果が出ない。であれば、そのやり方に問題があるのかもしれない。やり方を変えること、自分が変わっていくことの必要を説く。 自分はこれだけ努力しているのに、周りが認めないのは納得できない。そのうち自分の殻に閉じこもり、周囲を批判的に捉え始める。それはたしかに偏狭な振る舞いといえるだろう。それは「こまったちゃん」そのものであるだろう。 この論考は、芦田氏自身が学校長を務める専門学校での「卒業式の挨拶」からまとめられたものあることからして、おそらく卒業生がこのあと直面する社会の不条理に対して、大人の心構えを説いているのだろうと思う。学業はある程度努力に応じて報われるが、仕事はそうではない。いったん社会に出ると、そこはまったくもって非情な結果主義である。いくら頑張っても結果が思うようにだせないときは、「考えろ」。「努力する」の反対語は「考える」であると著者は卒業生にエールを送る。 学業途上の人間と社会に出て仕事をする人間にとって「努力」のもたらす意味は、違うということ。たしかにそのとおりである。そのとおりではあるが、社会はそれほどまでに「非情」ではないと私は思いたい。努力する人には必ずや手を差しのべてくれる人が現われる。助言してくれたり、伴走してくれたり、慰労してくれたり……。そうした人が現われるのもまた私たちの社会である、そう考えたい。努力主義の「こまったちゃん」がいるのであれば、その組織(社会)のほうにこそ問題があると考えたいのであります。 2013.12.14(か) |
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