近著探訪(10)

 「プガジャ」の時代
   ■大阪府立情報センター編・ブレーンセンター・2008年■




1987年12月号(最終号)B5判


1982年11月号:B6判
 ここのところ、雑誌の休刊・廃刊が相次いでいる。月刊誌では「現代」「PLAYBOY日本版」「論座」「ロードショー」「主婦の友」「ラピタ」など、本屋さんの景色の一部になっていたおなじみの雑誌が消えていった。
 関西のエリア情報誌(私自身ほとんど手にすることがなくなっているが)では、一昨年に「シュシュ関西」が、昨年には「神戸ウオーカー」、そしてついに「L magazine」も休刊となった。
 今回登場する「プガジャ」(1971年創刊)は、その「L magazine」(77年創刊)と競い合って、70年代から80年代半ばにかけて、関西のサブカルチャーをリードした雑誌である(87年12月号で休刊)。「プレイガイドジャーナル」を略して「プガジャ」で親しまれた。のちに誌名は「ぷがじゃ」となった。
 本書は、歴代の編集長・編集者から6人が交代で、「プガジャ」の時代を語りおろしたもの。当時の時代背景とともに、熱い人間模様がしのばれて、懐かしくも、すこし寂しい、兵どもが夢の跡…であります。
 プガジャ派とエルマガ派という棲み分けがあったように思う。私はプガジャ派であった。
 内容的に大ざっぱな分類をすると、「プガジャ」が編集サイドの思いを濃厚に注入した読み物を重視した構成で、「エルマガ」は、どちらかといえば、情報に徹したつくりといった印象(当時。最近はずいぶん変わっていると思う)をもっていた。
 同時代の東京でいえば「シティーロード」(71年創刊)が「プガジャ」で、「ぴあ」(72年創刊)が「エルマガ」か。その「ぴあ」ものちに関西に進出し、「ぴあ関西版」(85年創刊。前身は83年創刊の「Q」)が出る。そのあたりから関西では三つ巴の情報誌戦国時代に入ったように思う。
 83年から「プガジャ」の判型がB6判からB5判に変わる。つまり「エルマガ」「ぴあ」のサイズと同じになった。「プガジャ」を語るとき、最大の話題となる判型変更であるが(それもほとんどが否定的に)、本書でもその背景がいろいろと語られている。そのひとつ、広告版下サイズを他誌に合わせることで営業をしやすく、という理由が私にはいちばん納得できた。
 最後の編集長で、本書の最終章「最後の苦闘」を語る小堀純さんとは、年に何度かお会いする機会がある。たいてい酒席なので、「プガジャ」時代の話を訊いても、ガハハのバカ話とビンボー話に終始してしまうのだが、この章の語りからは「達成感」と「無念さ」と「静かな怒り」と「幸福感」がないまぜになった、ほろ苦くも熟成した、編集者魂がひしひしと伝わってくる内容であった。
「関係性」を大切にし、人と人とが出逢っていく場を提供し、新たな世界に導いていくことが、編集という仕事であるという小堀さんの主張通り、「プガジャ」は数々の<出逢いの場>を提供し、多くの<異能の人>を排出した。これほどに文化シーンに貢献した情報メディアは寡聞にして知らない。最終号の編集後記の最後の最後に記された「さあ、もういっぺん」(豊田勇造さんのアルバムタイトル?)のひと言は、20数年の時を経て、かくじつに爛熟して、実現したことに気づかされる。(か)2009.1.12
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