by 南木洋平

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2003年12月便 PNGの師走
 オーストラリアのケアンズに3泊4日で休暇旅行してきました。街を自由に歩けることは、本当に素晴らしいことです。日本食を買い込んで、パプアニューギニアの空港に着いたら、「申告しなかった」という理由で、だいぶしぼられました。ただ、税関の人たちが食べたいものがなかったので、食品はそのまま返してもらいました。
 行きも帰りも飛行場までの送り迎えを日本人の知人に依頼しました。それまでしなければ、安全を確保できないことも確かです。タクシーはありますが、一部の悪いタクシーにあたってしまうと「強盗のお客になる」ようなものです。当地は、警察はまったく当てにならなくて、「警官の制服を着た強盗」に会った日本人の話などを聞くと、本物の警官が強盗になると思えてきます。被害者の日本人家族はニセ警官と信じたがっていますが。

 職場に戻ると、課長が交代していました。しかし、元課長が課長の席に居座り、新課長は新人職員のように端っこの机に座っているというありさまです。それでも、書類の決裁権を得た新課長に、これまで中立だった2人の女性職員が擦り寄っていくのをみると、これが現実なのだという気がしてきます。私はもう、課の職員たちとあまり話をしなくなりました。別にみんな「政府の仕事」をしているわけではないので、コミュニケーションがなくなっても職務に支障はでません。

 12月、1月は、ほとんどの職員が長期休暇に入り、子供たちも長期休暇にはいるので、帰省する職員や、子供と時間を過ごす職員で、政府の仕事は(いつもながらですが)、何も動いていません。国会ですら、出席議員が足りずに開会できないというありさまです。省庁の職場は、職員の数が少なくても8時から4時まで、不思議とみなさん何かしながらすごしているようです。こうした環境のなか、私もだいぶマイペースで時間を過ごせるようになりました。しかし、週初めに提出する書類など、土・日に家ですることが多く、平常のウィークデイは、職場で遊んでいるように見えるみたいです。周囲の視線は、そう語っています。
2003年10月便 わたしの机がない!
 2年前に現在の職場に赴任したとき、配属する「課」は決まっていた。NGO & Church Divisionである。しかし、教会関係者や大きなNGOの関係者がこの役所を訪れることはほとんどない。情報もなければ予算もない役所など、だれが相手にしようか。ただ、私の机が、用意されていなかったのは問題である。援助担当の大蔵省の次官に頼んで配属省の幹部に電話をしてもらったら、中古の机と椅子2脚(一脚は来客用)がやってきた。座りにくい椅子であったがないよりはましである。次は、電話である。要求を重ねていたら、専用電話がきた。それまで、1本の電話線に5台の電話機を接続して5人以上が使用するという環境にあった。せめて私には専用電話がないと動けない。なにしろ、私以外の「専門家」は、個室か個室相当の環境を与えられているのに、私は大部屋なんだから。机と椅子については後日談がある。「机と椅子を用意してあげたのだから、あなたも私に何かくれるべき」といってきた幹部役人がいた。その時は冗談と思って相手にしなかったが、PNGでは決して冗談ではないことが、次第に分かってきた。物や親切はあげれば、返礼があるもの。その関係性のなかに人々は生きているということだ。

 さて、専用電話が設置されて、電話が朝から鳴るようになった。すべて、前の電話の所有者(大臣室)関連の電話。つまり、私にとっては「間違い電話」となる。かかってくる電話の内容で、いかに私用電話が多いかが分かる。私はいちいち、大臣室の電話番号を教えることで「間違い電話」に対抗してきた。1年以上たった現在も、同じことがつづいている。電話帳には、いまも大臣室で載っているのだろう。地方からの電話も多い。「間違い電話」に忙殺されているうちに、大臣の動きが分かるようになった。また、大臣周辺の人の動きも。社会福祉開発省の大臣は、オーストラリア人でPNG唯一の女性大臣だ。新聞記者を抱え込んでいるので、日々の行動が毎日、新聞で報道される。だから、他の政治家と違って何か特別な人であるかのようにに援助関係の日本人でさえもそう思っている人がいる。しかし、私の得ている情報からすれば、彼女もまた、他のPNGの政治家と同じ行動様式、価値観なのである。つまり、ワントク(同じ言語を話す人の集団)第一主義でる。「国家」を優先して考える政治家はこの国にはいない。しかし、それは、大変素晴らしいことである。
2003年9月便 痛ましい事件
 某月某日付けの英字紙2紙は、痛ましい事件報道が一面のトップ記事になっています。早朝に空港に向かうニューギニア空港の従業員バスがラスカル(武装強盗)に襲われ、4人がレイプされたということです。事件当日の朝は、私の住んでいる近くの路上でも、20人ほどのラスカルによって、大木が切り倒されて道路が閉鎖されています。そして、止められた車からお金を奪うという事件がおきています。私の通勤路であるため、一応、車が流れているかどうかを確認して出かけました。近くの事件の情報は、携帯無線で入ってきましたが、4人レイプ事件は、翌日の新聞で知りました。一昨年アメリカの平和部隊が撤退したのは、関係者がレイプ事件の被害者になったことだと聞いています。現地の責任者が女性であったこともあって、撤退の決断が下されたのだと予想します。日本の援助団体は、おそらく、人が殺されない限り、「撤退」はしないでしょう。日本人は安全については、決断できない民族なのです。「カミカゼ特攻隊の遺産」を、そのような形で引きずっているのかもしれません。いったんプラスに評価した生き方を、マイナスに評価することの難しさ…。 私たちが東京でパプアニューギニアへ旅立つ準備をしていたころ、聞かされる話は、「レイプされて発狂したオーストラリア人女性」とか、「腕を切りつけられた日本人女性」といった話ばかりでした。それらは、本当の話ですが、私たちとしては、「船便の郵便小包が半年以上もかかる」「船便は着くかどうか分からないので、お金は高くても航空便にすること」というような話をしてくれる人がいなかったのが残念です。「毛布が売ってないから、持ってきたほうがよい」といわれて、まじめに持っていきましたが、なんの事はない、毛布もバスタオルも売っていました。日本並の値段はするけれど、ほかの物をあきらめて、毛布やバスタオルをもってきたことのあほらしさ。船便で送った5個のダンボール箱は、着く様子もありません。ほとんどが大切な、本や資料コピーです。それらを失うと、私のこれからの人生が変わってしまうかもしれないほどのものなのですが、「そんな大事なものを、船便で送るのが悪い」といわれればそれまでです。
2003年8月第1便 自動小銃と部族社会
 銃声と花火の音は、どこが違うか? 難しい問題だが、花火は湿った音。「空気を引き裂くような、乾いた音」が銃声らしい。それを教えてくれたのは、パキスタンのカラチにも住んだ経験のある援助機関関係者であった。彼によれば、銃声の音で、距離を判断し、音が近づいてくれば危険、遠ざかっていけば安全というような判断をしていたこともあるらしい。

 ポートモレスビーに住み始めて、最初の半年は、夜中に銃声を聞くたびに飛び起きて、寝付かれなかった。そのころは、毎週のように、銃声が聞こえた。たいがい、1発か2発。それ以上続くことはまれだった。「試し撃ちだろう」とか、「路上強盗かもしれない」とか、想像しながら夜がふけていったものだった。2年目を迎えて、いまは、銃声にもなれた。ビールを飲みながら銃声を聞くというような感じである。
 パプアニューギニアとオーストラリアをはさむ海峡で、M16など自動小銃が約15万円で取り引きされていると先日、テレビニュースで報道していた。1年前には、ポートモレスビーの住民から、10万円で自動小銃は買えるというような話を聞いていた。モノにもよるが、10万円から20万円で、アメリカ製のM16からロシア製のカラシニコフまで入手できるらしい。だが、現金を持たないPNG人たちは、大麻との物々交換で銃を得ているという話もある。PNGゴールドと呼ばれる上質のPNG大麻。オーストラリアから運ばれた中古の銃とヨットや漁船の上で取り引きされているのだろう。

 いまでも弓矢が飛び交うPNGの部族社会である。これまでひとりの死者がでれば、部族紛争は手打ちされた。ふたたび衝突が起きるのは、半年後か1年後だった。自動小銃が地方の山奥まで行き渡るようになったのは、ここ2〜3年のことである。一度に数人から10人も死ぬようになり「戦争」となった。社会がその収拾手段をもたないままに、銃という新しい技術だけがもたらされてしまったわけだ。もはや、従来の長老(ビッグマン)による調停など機能しない。話し合いよりも、一発の弾丸で片をつけるほうが、すっきりする。そのほうが、はっきりする決着のつけ方であることを社会は学んでしまった。その文化に馴染まぬものは、首都や地方都市に移民するしかない。しかし、新しい移民地でも同じ問題に直面する。都市では、個人が簡単に銃を手にすることができる。身体が小さく、これまでの紛争では不利だった男たちも、銃を手にすれば一人前以上の男になれてしまうのだ。演説ができなければビッグマンになれないという時代は終わりをつげつつある。どんな手段を用いようが、現金を持ち帰り、身内の者たちに配分できる男が尊敬を集める社会になりつつあるのだ。そういう社会であるかぎり、国会議員や高級官僚の汚職は、けっしてなくならない。

2003年7月第2便 「働く」ということ
 パプアニューギニアは、世界中どこにでもある「普通の国」であり、パプアニューギニア人はわれわれと同じ現代という時代を生きている。そこから認識を深めない限り、ズレはますます広がり、実像から遠ざかることになる。特別な国ではなく、特別な民族でもないということである。
 とはいえ、住んでみると驚かされることは、多い。雇用関係というものを持ったのは、歴史的に最近のことである。多くの人は、雇用関係世代、一代目なのだ。雇われて働くということが、「分かっていない」。この言い方は、明らかに間違っているが、分かりやすくいえば、そういうことになる。

 実に簡単に仕事を辞める。そして、何度か転職を繰り返したあと、最初の職場で働いていることもある。たとえば、腕のたつ自動車修理工。彼は、トヨタ系の会社で訓練を受けて腕を磨いた。しかし、日本への研修も、彼に会社への忠誠心を植え付けることはなかった。日本から帰った彼は、日産系の会社に移った。賃金が問題であったのではない。彼は生活の環境を少し変えたかったのである。腕のいい彼のために、多くの顧客は、日産系の自動車会社に車の修理を頼むようになった。しばらくして、彼は、小さな修理工場へ移った。法人系の顧客は、会社という建前もあり、小さな修理工場に注文を移すことはなかった。やがて、腕の良い工員である彼が、また、トヨタ系の会社で働くようになり、彼を知る顧客は、安心してトヨタ系の会社に車の修理を頼むようになった。腕の良い修理工は、少数であり、その少数の修理工の移動と共に、顧客も移動するのである。

 以上は、架空の話である。しかし、似た話は現実に多い。官僚さえ、転職したがる。しかし、ほとんどの行政職員が転職せずに職場にとどまっている。なぜなら、役人とは毎日勤務していれば、(仕事をしなくても)給料をもらえると認識している(らしい)からである。そういう認識を教え込んだのは、植民地支配した白人たちである。彼らは、畑で働くこともせず、毎日たらふく食べて暮らした。伝統的に、パプアニューギニアでは、働くとは、畑で働くこと(のみ)であったのだ。畑で働かない白人たちは、かつてのPNG人からみれば、働かない人たちであった。

2003年7月第1便 ガソリンスタンド
 ポートモレスビーに住み、毎日車を運転する生活をしていながら、ガソリンスタンドには行ったことがないという日本人夫人がいます。夫人の車は、週一回、夫が出勤前に近所のガソリンスタンドに行って給油してくるからでです。それは、ポートモレスビーの生活では、まったく正しい行為なのです。
 ガソリンスタンド。そこは、準危険地帯であります。ガソリンスタンドで、車のボンネットを開けられて、バッテリーの水とかエンジンオイルの補給とかを間違って依頼しようものなら、法外の値段を請求されるのが普通です。一度だけですが、私はバッテリーの水の補給を依頼したことがあります。プラスチックに入った1本の水だけ入れるのを見ていました。しかし、代金を請求されるときには、2本の空き瓶を見せられて、2本分の代金を要求されたのです。さらに私の体験。20キナのガソリンを入れてもらおうとしました。ガソリンスタンドの男は、私の前の客の10キナ分の目盛りをそのままにしてさらに10キナ分を計量し、20キナの目盛りを見せて、「ハイ、20キナ」といって10キナ分をごまかしたのです。
 そんなことが起こるのがガソリンスタンドでです。だから、女性一人が行くところではないのです。しかし、私には時間的な余裕がなく、妻の車まで面倒が見切れません。それで、妻には、曜日や時間帯に気をつけてひとりで行ってもらっています。他の家族の面倒見の良い夫の話を知っている私の妻は、自分の妻を顧みないわが夫に不満をもっているようです。しかし、しかたなく緊張しつつガソリンスタンドにでかけているのが実情です。
 外出の際に、曜日や時間帯を考慮するのは、ポートモレスビーの生活では大変重要です。たとえば、銀行に行くのは、月曜から水曜までの午前中。スーパーマーケットに買い物に行くのも、午前中に限られます。午後は、引ったくりとか、車荒らしとかが出やすくなります。金曜日の午後が最も危険な時間です。スーパーなどのにも行かない方が良いのです。木曜日の午後もそれに準じて危険です。
 先日、ある日本人夫人が、車荒らしにあって、駐車中のくるまから窓を割られてモノが盗まれました。木曜午後3時ころの出来事です。ポートモレスビーの常識では、その時間に、その場所に行ってはいけないことになっていました。さらに、車内にモノを置いて車を離れるなんて、「盗ってくれ」というようなものです。それまで車荒らしなどにあったことがなかったので、油断していたのでしょう。ポートモレスビーでは、そのような経験を経て、注意深い生活をするようになっていくのです。
 しかし、なかには、怖れを知らない若い世代の日本人たちもいます。危険というのが見えない人たちです。歴史が彼らの判断力を裁く日が来るでしょう。

2003年6月第2便 ランチタイム
 私の職場でもどこでも、昼食をとらない現地の人は多い。実感として、半分くらいのひとは昼食を食べないのではないかと思う。住民たちが午前中私の職場を訪ねてきて、お昼の時間をすぎても「昼食」が話題になることはない。用事がすむまで、水も飲まずに話をしている。私たち現代人は、時間になれば食事をとる。しかし、一般的なPNG人は、食べるものがある時が、食事の時間なのである。

 日本人にはイモだけの食生活は無理、と本多勝一「ニューギニア高地人」には、自分たちが試みて3日で失敗した経験が報告されている。イモだけの食事は、三日目にはおなかが張って苦しくなるみたいだ。しかし、本多たちは他の食糧を持っていたので、現地食だけの生活を断念する理由が欲しかったのだと私は思っている。本多の時代以後、多くの日本人研究者らがニューギニア高地に入って生活したが、みな結構、イモだけの食生活に馴染んで暮らしてきた。イモしかなければ、イモになれるしかない。そして、どの民族の食生活も、互いに人類であれば、たいがいの食生活にでも適応できるというものだ。イモ食三日目の苦難は、ガスの発生と大量の便通にある。それさえ超えれば、たくさん食べて、たくさん排便する健康な毎日となるのである。

 私自身の昼食であるが、自宅に戻ることもある。片道15分で自宅まで車で帰り、食事をしてまた職場に戻ってくる。しかし、ちょっとあわただしい。1年目は、ホテルの食堂や日本食レストランにでかけることも多かった。2年目になると、だんだん現地化してきた。スーパーマーケット内に併設されている食堂など、比較的現地の人の利用する食堂を使うことが多くなった。そして最近は、歩いていける近くのビル内のキャンティーンとよばれる職場内食堂。カイバーともよばれる小さな食堂である。小さな食堂だが、売っている食べ物の種類は多い。準備が大変だなと思う。蒸したイモ、バナナの甘煮、鶏肉の蒸し焼きなどなんでもある。各種サンドイッチも。牛肉や豚肉の煮込みもあり、ご飯にかけて食べている。飲み物は、ペットボトルの水が一番安い。コーラやファンタの缶入りが冷やされて売られている。一回の昼食は、贅沢をして約300円。軽く済ませば100円となる。スーパー内の食堂だと同じモノを食べても倍の値段となる。

 職場の近くで昼食をとるようになって、食生活の幅が広がったように思う。外の店で買ってきたものを職場の机の上で食べることもある。そうしている人は、女性職員には見かけるが、男は少ない。男は見栄に生きる。それが、PNGである。

2003年6月便「ラスカル・レイン」
雨の日にはラスカル(強盗)が出没する。だから、雨の日は危ない。夜の外出はもちろん危険だが、自宅で寝ていても危ない。雨の日に、鉄条網の塀を越えて、ラスカルはやってくる。なぜ、雨の日か。音が消える。証拠が残らない。警察も出動しにくい。それだけではない。雨の日は、ラスカルたちを奮い立たせるようなのだ。

 本日はこちらは、雨が降っています。木曜日ですし、職員も銀行などに行って少ないので、私もこうしてパーソナルメールを書いています。私の隣の机では、秘書が新聞を読んでいます。私の買ってきた新聞です。私が読むよりも先に、ほかの職員が私の新聞を読んでいるということになります。
 さて、雨の日は、ラスカル(強盗)がとても多いのです。雨の日は、証拠が残らず、逃げやすいということだと思うのです。先日も30名を越える武装強盗が私の職場に押しかけてきました。早朝4時のことです。そんなことが、日常的にありますから、物品を買っても買っても、なくなっていくのです。しかし、直接、民衆に援助物資が行き渡っていると理解すれば、それはそれでよいのかもしれません。
 ところで、独立して、植民支配者の軍隊をうしなったPNGでは、部族戦争が復活しつつあります。首都の内部までも。植民地支配者の軍隊といっても、ひとりのオーストラリア人の警官と数人の現地人の警官によるパトロールでした。そんな少人数のグループパトロールが、部族戦争の発生を抑え、食人、首狩をなくしていったのです。「犯人」を捕まえて、強引に1−2年、刑務所にいれたからです。「犯人」にとっては、なぜ自分の肉体が拘束されるか分からなかった。しかし、力ずくで刑務所に入れられたから、その苦痛で同じことをしてはいけないと学んだわけです。しかし、いまは刑務所は満員で、人を殺しても1−2年で出所してきます。自己都合の出所(脱獄)も日常的です。刑務所の職員は受刑者をコントロールできていません。
 さて、独立して、上から押さえつける暴力としての軍隊はなくなりました。軍隊や警察はあっても、部族を超える価値観が形成されず、「国民」意識のない軍人や警察官には「国家権力の行使」はできないのです。国家が家族や親族集団よりも下位にある社会。それはそれで、すばらしいことだと思います。国家について考えるには、PNGはまたとない場所です。階級、身分のない社会がメラネシアです。私などそれを理想としてきても、現実の身分なき社会の個人行動に接するととまどうことは多いです。

2003年5月便「ポートモレスビーは最高!」……?

都合により削除しました。


2003年4月便PNGのサラ金地獄
 首都にさえ、お金を使用せずに暮らしている人たちはすくなくない。畑を耕して食べ物を確保し、収穫物は身内のだれかに頼んでマーケットで売る。お金の管理は、その身内にまかせているから、自らは現金をもつことはない。地方に行けば、人口の7割から8割は、自給自足に近い生活を送り、近代的貨幣経済とは無縁に暮らしている。
 物々交換も残っている。貝の貨幣が通用している地域もないことはない。なんとも社会的に健康な暮らしである。しかし、地方だからといって、すべて自給自足の生活だけが広がっているわけではない。奥深い山の中に開かれる、金鉱山や石油の採掘場では、移動はヘリコプターか飛行機。すべての物資は、オーストラリアから運ばれ、医院やスーパーまである。賃金はオーストラリアより高い。その賃金水準、物価水準の高さは、日本から想像もつかぬものだろう。たとえば、PNGは、日本を抜いて、世界一の郵便料金の高い国なのである。郵便配達制度のない国なのに、だ!?

 最も資本主義的な生活と、石器時代が接点を持つ国なのである。畑をすること以外に(弓矢を作ること以外は)モノを創造したことがない。そういう人たちのモノへの感覚を理解できるだろうか。モノをつくったことのない人たちには、メインテナンス(保守管理)の感覚はなく、貨幣経済の経験の浅い人たちには計画的にお金を使ったり、貯金したりする習慣は、まったく新しい生活習慣として外部から導入されたものである。もともとの石器時代的生活感覚で生きる人と新しい世界に積極的に同化しようとする人たち。これらの人たちが毎日、毎時間いたるところで接しあいエネルギーを社会に放出しているというのがPNG社会である。その社会は人間のエネルギーに満ちている。だれもが前に生きようとしているからだ。ただ、その方向はばらばらである。だから、素晴らしいということになる。
 で、標題のサラ金地獄の話である。日本と同様(世界標準では)月2割の利子の付くサラリーマン金融制度がある。PNGとて例外ではない。サラ金会社の顧客は、公務員や比較的大きな会社の会社員である。小さな会社の従業員は、つぎつぎとやめていくので、サラ金会社の顧客には向かない。最大の顧客は、公務員である。2週間ごとの金曜日が給料日のPNGでは、給料日の前日、前前日ともなれば、多くの職員が現金を使い果たしている。貯金などない。水だけ飲んで一日二日を過ごせる人たちではないので、お金を借りることになる。最初は周囲の人から。しかし、そのうち周囲の人もお金をかさなくなる。返済が遅れがちになるからだ。男性の公務員も、女性の公務員もこうして、サラ金に近づいていく。子供のために、親戚のために。それらが、借金の口実である。
 私は、30人くらいの職員の働いている姿が見える体育館のような大広間の職場で働いている。2週間ごとの水曜日、木曜日ともなれば、借金取りと電話でやり取りする職員たちの電話の会話が、あちこちから聞こえてくる。


2003年3月便世界の常識!?
 治安が悪いために、私の妻は、スーパーに買い物に行く以外はほとんど家の中で過ごしている。もちろん、ポートモレスビーでは、それが普通というわけではない。ゴルフにショッピングにと日本と変わらない、いやそれ以上にアウトドアを楽しんでいる日本人女性もいる。彼ら・彼女らからすれば、一日の大半を家庭で過ごしている人など、「病気じゃないかしら」ということになる。しかし、この5年間に、ポートモレスビーを長期に体験した日本人女性は、100人にもみたないはずだが、そのうち2人が刺されている。その確率を高いと見るか、低いと見るかは、主観の問題であるが、日本で50人にひとりが刺されるという街はどこにもない。ポートモレスビーのあるNGOの調査では、PNG人女性10人に2人がレイプの体験を持つとされる。
 
 時間を持て余しているわけではないが、私の妻はパンを焼いたりケーキを作ったりと忙しい毎日を送っている。美味しく焼けたときは、私が職場に持って行くことを許される。私はそれで、PNG人の舌の感覚を実験してみることにしている。日本人に美味しいと感じるものでも、PNG人には美味しくないものもある。むしろ、美味しさが一致するものは少ない。ひと言でいえば、調味料のない料理がパプアニューギニア料理の特徴である。塩以外は使わない。しかし、それは素材そのものの美味しさを最大限に引き出している料理であるからでもある。調味料で味付ける料理などPNG人からすれば邪道であるかもしれないのだ。これまでいちばん受け入れられたケーキは、ニンジンケーキ。ニンジンケーキが食べられなくなるのが辛いと私の帰国をその理由で悲しむ職員たちがいるくらいだ。
 さて、私がケーキを10切れ職場に持ち込んだとすると、私からケーキを受け取った職員が回りの人に分配する。2〜3切れなら、受け取る人は私がよく知るひとである。その場合、「ありがとう」の言葉は直接、私にかえってくる。しかし、数が10ともなると、私の知らない人にもケーキが行き渡ることになる。そして、お礼をいわれるのは、分配した人であって、最初にケーキを持ち込んだ私に、ではない。ケーキをもらったひとが、次にお返しをする対象は、直接手渡したひとに、である。このへんの感覚が、PNG的でなかなかおもしろい。もし、「ありがとう」の言葉がほしければ、直接配ってあるくことだ。

 さて、何かをもらうこと。それは、次には等価のものをお返しすることである。この関係の中を、PNG人たちは生きている。何かをもらい、そして返す。その繰り返しの中を生きることが人生である。漫画家の水木しげるが、著書の中で書いている。水木は戦後、ラバウルに通い、何年も世話になった現地の人に、中古の車をプレゼントした。受け取った家族は、「これまで水木さんに親切にしてあげたお返しをやっともらった」と正直に答えている。そのように、何かをあげたり、親切にすることは、かならず相手から返礼されるということが前提なのである。ここ、パプアニューギニアでは、それが常識で、たぶん、それは世界の常識に近いと私は思う。しかし、最近の日本の若者は、PNGにやってきて「親切にしてもらった、しかも只だった」と無知にのたまう。タダほど高いものはないことを、その若者は知らないようだ。

2003年2月便ついに泥棒被害
 我が家には被害が及びませんでしたが、隣の家まで侵入されそうになったと聞ききました。被害がでたのは、我が家から2軒隣の家。タウンハウス(3階建ての長屋)なので2軒隣といっても至近距離です。やられても仕方がないというところでした。
 ただ、詳しい被害状況は、いまもって不明。先月1月中旬に、アパートの敷地内で鉄条網の張替え作業があり、ガードマンの敷地内パトロールも急にあわただしくなり、壊れていた街灯も修理されるという一連の動きがありました。なんだか変だなと思っていたら、やはり「被害」がでていたということです。
 いちおう外部からの侵入ということですが、事情通によると「内部犯行説」だそうです。ハウスメリーと呼ばれる通いの女中の手引きで、ガードマンが外部から(正門を通じて)おびき寄せた男たちの犯行という解釈が支配的です。
 こんな場合も、決して警察に通報するようなことはないのが、パプアニューギニアです。警察は、運転免許証の発行所以上の働きをしていません。もし、警察に通報しようものなら、警官たちがやってきたあとに、多くのモノがなくなっているかしれません。ホンモノ警官の制服を着た強盗団も珍しくありません。ホンモノの警官たちが強盗しているという人もいます。
 警察のない社会、軍隊は名ばかりで国軍が成立していない国家。そんな国をイメージすることは難しいようです。「警察はないのでしょうか?」というような手紙を日本の知人からもらったことがあります。その人が言っているような意味での警察は、ありません。国軍がないというのも、国民意識が形成されていないのですから、国を守るというような軍隊はできないのです。おまけに、警察と軍隊はヤクザ抗争さながらに、ドンパチやってにらみ合っています。
 さて、泥棒騒ぎのあとでは、被害のでた日に出勤していたガードマンら職員3人が首になったそうです。被害の出た家の女中も職を失いました。こうしたことはポートモレスビーでは、一般的なことです。より大きな被害をださないためには、それしか方法はありません。ただ、職を失った3人か4人のうち、1人か2人は無罪であろうことは予想できます。残念なことです。
 こうして、数年間「無被害」の記録をほこってきた私たちの住むアパート群の神話が崩壊しました。泥棒の被害のないアパート、マンション、貸家は、ひとつもないというのが現実のようです。

2002年8月便:買い物は気合い十分に!
 ポートモレスビーの路上には、人が(ほとんど)いない。東南アジアを旅してきたひとなら、「死んだような」街に不思議な感慨を覚えることだろう。路上での物売りを禁止しているので、人通りが極端に少ない。車を持つ階層の人々は、短い移動にも車を使う。自宅からスーパーまで100メートルの距離であっても、車で出かけなければならない。慣れてきたから歩いていっている、というような人もいるが、たまたま(引ったくりなどに)襲われていないだけだということを本人が気づいていない場合が多い。
 街の何箇所かに、金網で囲ったテニスコートのような市場がある。その限定された場所のために、物売りの数は制限されている。それで競争は非常に激しく、市場の物売りとして生き残ることは大変むづかしい。
 さて、そこでの買い物である。
 パパイヤを二つ買おうとする。日本人なら、中指と人差し指を立てて「2つ」と言わんとするだろう。しかし、売り手は、最初怪訝な顔をして、次に3つのパパイヤを渡そうとするだろう。PNGでは、指での数の表示は、折った指の数で示される。正式な(標準的な)2の示し方は、小指と薬指を折り、他の3本の指を広げた状態。それが、2の表示となる。1は、小指だけを折った状態。3は、小指、薬指、中指を折った状態。4は、親指以外を握り締めた状態。したがって拳骨は、5を指し示す。
 ということで、日本人が1本と思って、指を1本立てて買い物をしようとすれば、4個あるいは4本の商品が渡されようとする。これは、かなり気をつけないとトラブルになる。
 値切るという行為が、売り手の心を傷つけるということもある国柄である。外国人が出入りしているような野外のマーケット以外では、値段の交渉はない。言い値で買うか、あるいは買わないか。選択肢は、ふたつにひとつ。
 市場で気をつけなければならないのは、野菜などの商品をまたがないこと。子供連れの外国人が買い物に来て、子供が野菜などを飛び越えたりすると大騒ぎになる。周囲を囲まれて返してくれないだろう。下手をすると殺されるかも。これは冗談ではありません。ポートモレスビーでは、人は実に簡単に殺されるのです。先日の朝にも、ワイガニ市場に警察官の死体が転がっていたという事件があった。犯人捕まらない。だれがやったかわかっていても、捕まらない。
 たかが買い物ですが、気合を入れて出かけなければ、無事に帰ってこれないのです。

2002年7月便:会議のエチケット
 今週もいくつかの会議に参加し、招待を受けたいくつかの会合には出かけなかった。不参加したひとつの会は、小学校の新築オープニングセレモニーで、(首相の選挙区なので)首相も参加する会であった。モラウタ首相とは、すでに握手もしたことがあり、それ以上の関係を持ちたいとは思っていない。で、首相に合うことには関心がない。むしろ、この総選挙の時期に、首相の全行動、全発言は政治的な意味が与えられており、そこに同席することは彼と彼の政党を支持していると「誤解」を受ける可能性がある。だから、参加しなかった。というのが表向きの理由。もうひとつの理由は、招待の連絡をしてきた男が、私が会いたいときには現れず、今回のように向こうの都合で連絡をしてくるので、応じきれないという事情があった。知性も教養もあるいい男なのだが、目の前のニンジンを追いすぎて、もっと先にある宝物が発見できずにいるというような人物である。

 さて、パプアニューギニアにおける会議だが、何かを決めるという会議はほとんどない。互いに知り合いになるという程度の意味しか会議にはない。国会といえども、議論のプロセスで何かが決まるのではない。決定事項は、会議の前にすでに結論がだされていたり、議場とは別の場で密かに(しかし、それほど複雑でなく、なんとなく)決まってしまうということになる。たとえば、現在のモラウタ首相の選出過程が、そうであった。前任の首相が2年前に職を辞したとき、一晩で(なんとなく)決まったのが現在の首相であった。もっとも、彼以外に首相ができる人材は見当たらなかった。当時は、国家が経済的に破産するかどうかという破局寸前まで追い詰められていた。「経済」のわかる政治家は、彼ひとりであったのである。「経済」は少しは改善された。しかし、「破局寸前」もそれが長く続くと、それでも「安定」という状態に向かうのが常であるので、現在も「破局寸前」であることには変わりはない。日本も同じ。もっとも、モラウタ首相が、複雑な部族社会のバランスを保てる人材であるという条件が満たされたうえでの選出で、このバランスをとれるということが、「経済」の能力があるということ以上に重視されるのが、パプアニューギニア政治である。
 ということは、会議は「バランスを測る」場としての機能を持つはずだし、それ以外の機能はたいした意味をもたない。何かを決めることは、多くの場合、バランスを崩すことになるので、「現状のまま」という選択が全体にとって無難なものとなる。
 いくつかの部局や省にまたがる会議が召集されると、序列で一番偉いひとが議事進行者となる。彼は、しばしば、その日の会議が何であるか知らない場合もある。会議のレジュメや資料を整えるのは、会議ではほとんど発言しない中堅の職員。しかし、彼(彼ら)の準備の内容が会議の成否を決める最大の要素である。会議の参加者は、自分の所属する省や部局、あるいは部族(これが最優先の利害集団)の利害や既得権を主張することに会議の発言が費やされる。いつのまにか、会議のメインテーマは、消えていくことになる。それでも、そこに会議のメインテーマに引き戻そうとする勇気ある人材の発言が、現れては消える。その勇気あるまっとうな行政職員に一人でも出会えたら、私の会議への参加に意味はあったといえる。
 それで、パプアニューギニアでの会議は、同じような会議が2回、3回と続いて(しばしば2週間の間隔で)やがて、消えていく。3回目、あるいは、4回目の会議が開かれなくても、主催者も参加者も何かを納得して、それ以上追及したりしない。互いに気を使い合う。それが、パプアニューギニアでの礼儀である。人の気持ちが察せられないような日本人は、この国では食べられてしまうしかない。「食べられる」というには、比喩であるが、3代前には現実であった地域があったのも事実である。

2002年6月便:乞食のいない国
 
パプアニューギニアの都市に乞食はいない。村にもいない。だから、パプアニューギニア人がシドニーや東京にでかけたときに、ホームレスを見ると心から驚いてしまうのである。なぜ、オーストラリアや日本のような先進国に乞食やホームレスがいるのかと。
 パプアニューギニアは、同じ言葉を話す「ワントーク」という集団で構成される社会といってもよい。拡大家族、拡大親族集団としてのワントーク内では、食べるものは分かち合うようになっている。したがって、誰か収入のある者や、食べられる収穫物が存在する時は、なんとか全員が生き延びられるようになっている。社会開発分野では、高度な「セイフティ・ネット」が存在するというように言うこともある。
 このワントーク・システムは、拡大親族集団が基本なので、言葉が通じるからといって、即、食べ物を分け合うというわけではない。ニューギニア高地では、隣の村もほぼ同じ言語で言葉は通じるが、互いに敵同士で殺しあうこともある。しかし、同じ高校や大学で彼らが出会ったならば、同じ言語の者同志は助け合う関係に発展する。就職活動もこのワントークシステムを頼って行なう。そうでなければ、役所にだって就職できない。「引っ張ってくれる人」が必ず必要なのである。
 そんなのでよいのかといえば、それでよいのである。政府があっても、機能していなければ、そのかわりに社会を支える社会単位が存在しなければならない。機能しない国家に対して、家族や親族といった「コミュニティ」に近いレベルの社会単位は、しっかりしている。それが、パプアニューギニアである。政府は機能せず、国会議員や官僚は腐敗に満ちていても、村社会、コミュニティの指導者たちは潔癖で、自分たちの所属する小さな集団の面倒をみることに生きがいを感じている。
 自分の周りの者を世話して、「貸し」をつくり、尊敬されて死んでいくこと。それが、「ビッグマン」とよばれる、理想的な男の生きかたである。そういう生き方が存続しているかぎり、彼らの周辺から乞食が生れるようなことはない。 もっとも、乞食をするくらいなら、ラスカル(強盗)をするというのが、パプアニューギニアでの男たちの生きかたである。
 先日、帰国する知人を見送りに飛行場にでかけた。その帰り、飛行場の駐車場付近で本物のピストルを振りかざして遊んでいる一人の青年の姿を認めた。そのときは、彼と目が合わないように歩き、なんとか無事にやり過ごすことができた。乞食が居なくとも緊張する国ではある。

2002年6月便:イモ食と排便
 
ニューギニア高地にサツマイモが栽培され主食となったのは、そう古い時代のことではなかったらしい。古くて350年、新しくて200年。地域差が激しく、150年の地域さえある。日本のサツマイモの歴史とそう変わらないのである。江戸時代の日本人は、米食でなく、平均的に見ればイモと雑穀であった。イモが主食であった地域のほうが多いのである。
 ところで、ニューギニア高地で、一人あたりどのくらいのサツマイモが毎日、食べられているか。一日約2キロ。普通サイズのサツマイモ7本分ということがこれまでの研究で(だいたいのところ)明らかにされている。ほとんどイモだけ食べて暮らしているといってよい。朝に2本。昼に2本、夜に3本ということになる。もっともすべての人がそのような本数を目安にイモを食べているわけではない。2、2,4本というのは、ある日本人研究者が現地での参与観察のおりに、食べていたイモの本数である。
 その日本人研究者の記録によると、イモ食をはじめた当初、排泄量が極端に少なくなったという。排泄の気配すらなかったというのである。そして、そのあとにやってくる大量の排泄期。頻繁にトイレに通うほどの排泄が続いたというのである。やがて、安定して普通の排泄量、排泄回数に戻ったらしい。記録者は、これを腸や栄養の適応の問題として捉えている。
 こうした問題の背後には、ニューギニア高地の住民が、イモだけの低タンパクでどうして筋肉質の身体を維持しているのかという、まだ解明されていない問題が存在する。カロリーもおなじで、摂取食糧から計算されるカロリーよりも多くのカロリーを消費しているというのである。これは、人間が「かすみを食べても生きられる」(人もいる)という伝統医学に現代科学が挑戦している分野でもある。
 日本の断食道場などで、小食になれた(適応した)人たちが、栄養学的には栄養失調になるはずなのに健康を維持できているということが見られる。朝日新聞のアエラもこのテーマを取り上げたこともある。アエラ止まりであるところが、残念なところだが、仕方あるまい。医学や栄養学は、見えるモノだけしか分析してこなかった。人間の身体を取り巻く、気体や電気など見えないものについては、見ようとしなかったのである。 

 参考 梅崎昌裕 「高地  人口稠密なフリを襲った異常な長雨」大塚柳太郎編著『ニューギニア 交差する伝統と近代』講座・生態人類学5 所収 京都大学学術出版会 2002年

2002年6月便:5月11日事件の真相
 5月11日事件とは、5月11日の土曜日に、パガヒルという眺めのよい丘に観光に来た日本人が、パスポートと航空券の入ったかばんを車に置いたまま鍵もかけずに観光していたために、当然ながらカバンを盗まれて、一人だけその日の午後の航空便で帰れなかったという事件。

 毎週土曜日の午後に、ポートモレスビーのジャクソン・インターナショナル空港から成田行きニューギニア航空、直行便が飛ぶようになって、土曜日の午前から昼にかけて日本人観光客を多く見かけるようになった。ラバウルなど地方に出かける人も、金曜日にはポートモレスビーに戻って、土曜日にPOM(ポートモレスビーの略称)観光を楽しんで、昼食をとってから空港に向かうというパターンで動いているようだ。
 パガヒルは、ポートモレスビー、タウン地区の西はずれにある岬の丘で、標高99メートルの頂上周辺からの眺めがすばらしい。第二次世界大戦では、日本海軍がここに攻めてくるだろうと予想して、パガヒルには防空壕やトーチカが多く築かれた。日本軍は、シンガポールを陥落したとにのように海側からは攻撃せずに、背後の山(オーエン・スタンレー山脈)を越えてポートモレスビー港の連合軍を攻撃しようとした。しかし、3000メートルの山脈は、マレー半島の自転車部隊のようには進軍できず、ポートモレスビーが見えるところに来た時にはすっかり疲れ果て、進軍不可能になり、それでも進めば平地の食料にも出会えたはずなのに、なぜか「撤退命令」が出て、来た道を帰ることになった。連合軍は逃げる日本軍を追撃して、歴史に残る「勝利」(日本軍にとっての敗北)をえた。なにしろ山の一本道での戦争。迎撃も追撃も連合軍の機関銃が束になって日本兵をひとりひとり狙撃するように射撃していったのである。(この作戦を参謀本部で計画した人物の名前を記念碑掘り込んで忘れないようにしたい。)

 さて、パガヒルで起きた5月11日事件である。5月11日事件は、直行便が飛ぶようになってからの、ポートモレスビーで起きた日本人観光客を狙った最初の(発表された)事件となった。それで、パガヒルはやっぱり危険だ、とか言われることになったのだが、関係者から話を聞くと、どうも運転手とガイドの「不注意」から起きた事件であるらしい。
 パガヒルの頂上近くの住宅地は、政府が高級役人や軍人にただのような値段で払い下げた高級住宅地がひろがる。低所得者の住民は、海辺にセトルメントといわれる地区を形成して約800名が暮らしている。頂上付近にも戦争時代の防空壕がのこり、そのひとつに元警察官の住民が住みついて、彼は「キアップ」(警官)とよばれて慕われている。で、そのキアップおじさんは、観光客に親切で、あれこれと世話をやいてくれる。
 その日も、日本人観光客が3台の車で、丘を登って来たのを見て、出てきたキアップおじさんは、車の駐車位置を指示して安全な観光についてアドバイスしようとしたようだ。でも、おじさんは英語があまりできないので、ピジン語でのやり取りとなった。運転手やガイドにはおじさんの話が聞き取れたはずだ。
 しかし、一台の車だけが、おじさんの制止を振り切って通常の駐車場の場所より上に車を走らせてしまった。この車に乗っていた一人が、パスポートと航空券の入ったカバンを車内においたまま観光して、当然ながら盗まれることになった。
 パプアニューギニアでは、特にポートモレスビーでは、車の中にモノを置いたまま車から離れないのは常識になっている。さらに、車から離れる時は、人気のない場所でも鍵をかけるのが常識。「犯人」は、遠くから物陰などに隠れて、さりげなく見ているからだ。今回の事件も、頂上付近をとおるタウン地区への「近道」付近にたむろしている青年たちの犯行と住民たちは推測されている。
 今回の事件は、パプアニューギニアの「常識」をはずれた行動をとった運転手とガイドの責任が重い。不注意だった日本人観光客自身が最終責任を負ったのは当然の成り行き。どこの国にも旅の仕方があるが、今回の事件など世界共通の常識で防げた事件である。

2002年5月便:誰もが呪術を恐れている
 たとえば、ある村で殺人事件がおきて、犯人が呪術師だとする。村人のだれもが、彼が犯人だと信じ、被害者の家族が警察に告訴して逮捕をもとめても、警察は動かない。たとえ逮捕に出向いたとしても、村の入り口でユーターンして帰ってくる。警官たちが呪術師の復讐を恐れているからだ。呪術師の復讐とは、逮捕した警官の子供や妻がある日突然死んでしまうこと。
 呪術師といっても職業的な呪術師から、村人の男すべてが教養として呪術を「たしなむ」という村まで、バリエーションは様々にある。呪術師が職業になるのは、最近では「お金儲け」のために呪術をつかうことがビジネスになっているからだ。資本主義社会でも呪術師は生き延びられるというわけだ。社会の変化に「呪術」のほうが対応しているということでもある。
 かつて、古典的な呪術としての「殺人」は、部族戦争文化のサブカルチャーみたいなものだった。野原の戦闘では倒せない相手を、呪術で殺そうとした。ハエとかコウモリとかに化けた呪術師が敵を襲うというようなパターン。透明人間になって、相手を川や池に引きずり込んで殺すというパターンなど。人形に釘を打ち込んで呪い殺すというようなパターンもある。日本でも平安時代まで、「のろい殺しの禁止」みたいな法律がしばしば出されていた。
 呪術には良い呪術と悪い呪術があるとされる。人を幸福にする呪術と悪意をもってする呪術の違いだ。が、良い悪いは主観の置き方によって違ってくるから、両者を分ける線引きは難しい。心をよせた女性を呪術によって自分の妻にするという呪術も、男からすればよい呪術となるが、女の側からすれば悪い呪術となりそうなものだ。しかし、呪術は男の文化という発展のしかたをしてきた。で、「女をモノにする呪術」に対抗する「女の呪術」はなかったわけだ。
 近代の恋や現代の結婚制度しか知らない人には、パプアニューギニアの男女の関係の理解は難しいと思う。部族戦争で、負けた男が勝った側の奴隷になることはなかったが、負けた側の女が勝った側の奴隷妻になることはあった。男と女は、階級として分かれていたということである。負けた側の男たちには、殺されて食べられるか、ジャングルを放浪しつつ消えていくという運命にあった。(ただし、儀礼的な部族戦争では、前もって定められた死者の数に達すれば戦争は終わり、双方もとの生活に戻る。)男が奴隷にならなかった社会システムからは、カースト制度は生れず、身分差別には無縁な社会が生れ、極端な平等社会が存続することになった。
 この「極端な平等社会」に女性は構成員たる存在ではなかった。だから、呪術という主流の文化に女は脇役としてしか登場できなかった。ただ、今後の社会の発展と共に、女の呪術師が登場するだろうという予測はなりたつ。沖縄では、かつは女だけがユタ(呪術師のようなもの)になれたが、明治以降に男のユタも現れてきた。それと逆の現象が、パプアニューギニアでも見られるだろう。パプアニューギニアでは、呪術の本当の部分は、まだ語られていない。なぜなら、呪術が生きている世界では、呪術について語ること自体がタブーであるからだ。語られたり、書かれたりしている呪術は、もはや本物の呪術ではない。

2002年3月第2便:挨拶されない大臣
 某省には、現職国会議員の大臣がいます。政権政党の中堅どころの政治家です。500以上の多民族社会であるパプアニューギニアでは、政治はある種のバランスで動いています。大臣が選ばれる基準は、政治家本人の能力よりも、彼が所属する部族が政権内でどのような待遇を受けるかという点にあります。
 この大臣は、運転手付きのダブルキャブで通勤です。中古車の雰囲気のする車です。専用の駐車スペースが玄関にいちばん近いところにあります。私は何度かすれ違ったことがありますが、特に挨拶は交わしません。大臣が省内を歩いても、だれも声をかけないし、挨拶もしません。というのは、職員のほとんどは、大臣とは仕事のつながりがないのです。大臣は、勝手に使える予算を確保して、それを自由に使っているだけです。職員の職務と関係するような使われ方は、まれなのです。
 職員は、次官には気を使いますが、大臣には気を使いません。次官もまた、政治人事で外から来る人ですが、ある程度の教育歴と事務能力があります。この省の次官は、前の国立大学副学長。大学の副学長というポストは、大学の事務局長であって、大きな権限をもちます。ただ、現在の次官も大学の副学長を定年退職してからは、NGOなどに仕事を求めて求職活動をしていたそうです。そんな人が省の次官になることろに、PNGのおもしろさがあります。
 ところでこの大臣、以前は大工さんをしていたことがあるとか。それで、ときおり予算もないのに省内の内装などの大工仕事を発注したりして、経理の職員たちの怒りをかっています。昔の仕事仲間への選挙目当てのお金のばら撒きです。お金をばら撒かない政治家は落選します。挨拶をしてもされなくても良いのです。自分のワントーク(同じ言語を話す集団)から裏切り者扱いされないことが重要なのです。

2002年3月第一便:つながらない専用電話
 天井が高ければ野球でもできそうな体育館のような空間に、机がパラパラ。なんとも落ち着かないオフィスで「執務」しています。訪問者の誉め言葉は、「広広としていいですね」。本音は、「私ならいやですね。個室をもらって当然ですよ」。
 何ヶ月目かにやっと専用電話をもらった。しかし、朝から夕方まで特定の女性職員への電話ばかり。これは、前に幹部職員の事務所に同じ電話(番号)が設置されていたため。その女性は、たぶんその幹部職員の秘書か何か。幹部職員が外に出かけているときは、電話ばかりかけているのです。それが普通の職員の日常です。なにせ、事業費ゼロの役所なのですから。
 私は、電話のたびに電話番号を教える係となりました。まるで電話交換手です。たまに自分にかかってくる電話もあります。私への電話といっても喜んでいられません。ろくでもない電話が大半です。私の周囲の職員は、1本の電話線に5個の電話機をつけて使用しています。だれかが電話機をおいたら、すぐに誰かが電話機をとって電話するといった具合です。
 隣の電話は、外国にもかけられるというのに、私の電話は国内の地方にもかけられなくなっています。メールもオフィスでは使えないのです。電話が接続ポイントにつながらないからです。
 職員のなかには、オフィスではインターネットで遊んでいるだけという人がいるのに、私にはそんな遊びも許されていません。来客と間違い電話で、一日が終わります。毎日がフィールドワークのような職場ですから、これを楽しむしか方法はないようです。

2001年11月第1便:国会議員
 世界第二の島の東半分を占めるパプアニューギニア。人口500万人で、1年に3%もの高率で人口が増えている。日本より大きな国土に、人口500万人なので、計算上ではゆったりと暮らしているかのような印象をもちやすい。しかし、実態は、800もの言語集団が、互いに領地を主張しあう戦国時代さながらの競争社会となっている。ひとつの言語の平均人口は、1万人より少ないのである。人口1万人弱の国が、800あると想像するとよい。来年7月には、5年ごとの国会議員の選挙が行なわれる。1年も前から、選挙運動は本格化している。正確には18ヶ月前から、選挙運動がはじまるのだという。当選しても議員の権威が保たれるのは、18ヶ月。それ以後は、次の選挙のための運動期間だともいわれる。
 まれにみる平等で、ばらばらな社会で、国会議員の選挙も、候補者が入り乱れて、5%の票を獲得すれが「当選」となってしまう。無名の候補者が当選し、現職大臣が落選する。そんな国である。役人も、教師も、軍人も、だれもが国会議員を目指している。選挙に出るために休職し、落選すれば、元の職場に復帰する。
 来年7月に「選挙に出ます」というような話は、毎日どこかで聞こえてくる。選挙に向かうエネルギーは、これは祭りだと感じさせるものがある。800もの集団にわかれた社会が、ひとつの社会であることを確認する数すくない機会(お祭り)が、選挙というわけだ。現在の首相も、当選一回の国会議員。来年の首相も、(もしかしたら)現在は無名の野心をもった人物が、突然、首相になっているかもしれない。ギャンブル性あふれる国である。野心のある男ならば、だれもがこの国の首相になれる可能性をもっている。そして、大臣から指名されれば、一般市民でもだれもが「次官」になれる。ちょっと前まで、仕事を探していた無職の男が、突然、「次官」になってしまうのだ。

2001年10月第2便:交通事情
 首都のポートモレスビーには、私の知る限り交通信号機は二箇所しかない。共に事故が多発している。信号機になれていないことが主な原因の事故である。南の地区にある信号機は、「夜は赤でも止まらない方が良い」といわれている信号機だ。悠長に止まっていると、数人の若者が現れて「ホールドアップ、金を出せ」とやられることがある。めったにないことだが、時々おこるのは事実である。
 外国人女性へのレイプ事件も、大きな確率で起きているわけではない。しかし、オーストラリアからの観光客が激減したのは、「レイプされて、発狂したオーストラリア女性」といった話が、伝わってしまった結果だ。その話を私は、東京でイギリス人の英語教師から聞いた。
 さて、信号機の嫌いなポートモレスビーの運転手たちは、ロータリーが殊のほか好きである。「信号機よりもロータリーの設置を」という新聞の投書も載る。たぶん、止まって待つのがいやなのだ。パプアニューギニア人は、何事につけてもせっかちで、何かを決めようとすると、すぐに決済をもとめる。だめなら次の人に頼もう、というわけだ。

 車が左側通行のパプアニューギニアでは、交通ルールは日本とたいして変わらない。ただ、どの時も右側の車が優先というところに特徴がある。ロータリーに入るときも出るときも、右側の車が優先される。これになれると、ときとして直線車両より右折車両が優先されるようになる。だから、まっすぐ車を運転していても、四辻で右折車両を見かけたら要注意。
 パプアニューギニアでは、車や飛行機など乗り物の歴史が浅い。歩いて10キロなんて平気な人が首都にも多い。人々は、スピードになれていないので、台湾やスリランカなどスピード狂のドライバーが少なくて安心である。ハイウェイを140キロ以上のスピードで追い越していくのは、おそらくオーストラリア人。私は80キロを目安にしているが、気がつくと100キロを越えるスピードが出ているときもある。
 タウン地区と役所街を結ぶハイウェイは、勿論使用無料の道路である。スピードの出ない公共バスには、ハイウェイの通行は認められていない。
 居住地区と働く場所を明確に分けて、車で移動。これが、アメリカで生れオーストラリアでも常識となった人々の暮らし方である。移動時間や移動距離は苦痛にならない範囲で収められている。移動そのものが「負担」となる日本社会との違いだ。
 経済や開発にもこの「移動」概念は反映されていて、日本では移動そのものにコストがかかる。アメリカやオーストラリアでは、移動距離は経済的負担として(ほとんど)カウントされない。アメリカ経済学が、途上国で通用しないのは、途上国には高速道路がないからである。

2001年10月第1便:FAX
 およそ機械というものを三世代前まで知らなかったパプアニューギニア人は、機械に対して特別の感情をもっているように思われる。機械に対する特別の感情とは、たとえば、飛行機が自分たちの裏庭に降り立つ日を待ちわびるような感情である。
「カーゴカルト」という宗教運動がある。自分たちの欲しいと思っている物品を乗せた船や飛行機が、自分たちの村にやって来ることを祈る運動で、その種の宗教運動は繰り返し繰り返し、パプアニューギニアの全土のいたるところで発生してきたし、これからも発生するだろう。
 石器時代からパソコン時代までの1万年の時代を一人一人のパプアニューギニア人たちが、時間の旅をしている。1万年の感覚が、一人の人間に同居して日々の瞬間にそのバランスとアンバランスを見せてくれる。
 私の働いている事務所にFAXがある偶然で設置された。どこかで死蔵されていたFAXを設置したところ、問題なく受信も発信もできることが分かったから大変である。一本の電話線を利用して3本の電話とFAXが使われることになった。
 それまで私用電話の競争をしていた人たちは、こんどは私用FAXの競争状態に突入した。外からの電話は、かくしてつながらなくなった。
 職場の電話が外部と通じなくなることなど、大して重要ではない(のかもしれない)。重要なのは、個人がFAXマシーンと交流すること。あるいは、遠い友人とFAXマシーンを媒介に交流すること。機械との交流こそが大事だ。次々と入信されてくる、大して重要でもない(と私が感じる)FAX通信の競争状態について、考えさせられた一日であった。

2001年9月第3便:電話
 入居する住宅が決まってすぐに電話局に電話の申し込みに行った。手続き種類の欄には、年収を書く欄があった。電話代が払えるかの確認なのだろう。書類手続きが終わりかけた時に、担当の女性職員が何度も自分の名前を繰り返した。何のことだろうと思ったが、あとで事情が判明した。
 通常、電話の設置には1ヶ月ほどかかる。工事の順番を早めてもらうには、申し込み書類の順番を変えてもらう必要がある。その時に、担当職員の名前が必須というわけだ。同時に申し込み書類の受け付け番号。このふたつがわかっていれば、あとはブローカーにまかせればよい。私の場合は、契約をいそぐ不動産屋がやってくれた。どれほどの「賄賂」が渡されたのかは、わからない。おそらく500円くらいではないかと予想する。
 私の場合、1週間もたたないうちに工事の人がやってきた。電話線はすでにあるので、簡単な点検のあと電話を設置すればおわり。工事の人たちも、順番が早まったケースでの工事と理解しているらしく、あれこれねちねち「要求」らしき話をしてくる。パプアニューギニアに着たばかりの私は、知らないふりを通すことにした。
 電話も携帯電話も個人無線も意外と普及している。個人無線は家族や会社で連絡しあうためのもの。無線機をもって買い物、というスタイルがポートモレスビーではかなり流行。いざというときに助けを求められる無線機は、ラスカル(強盗)やスリの対策にもなるかもしれないというわけだ。
 役所の電話は朝から職員が次々と入れ代わり立ち代わり使用しており、外からかけてもつながらない。そんなときは、無線連絡して「あとから電話をお願い」などと言って使っている。便利なのか不便なのかわからない。
 アパートに入居してすぐに電話は設置されたが、アパートの契約書は交わされないままに4週間が過ぎようとしている。不動産屋の電話局への最初のすばやい動きと、その後ゆっくりした対応の意味を図りかねている。

2001年9月第2便:ビール
 パプアニューギニア人がはじめてビールに出会ったのは、1930年代から1940年代のプランテーションであった。金網ごしに眺めていた、白人の植民者たちが週末に飲む泡の飲み物。このビールとの出会い方は、のちにパプアニューギニア人たちのビールの飲み方を決定づける。
 植民地時代、主なプランテーションでは労働者がビールを買うことができなかった。植民地時代が終わり、お金をだせばビールが買えるようになったパプアニューギニアの男たちは、2週間に一度の給料日の金曜日に、お金のなくなるまでビールを飲んでしまうようになった。全員がそうとはいえないまでも、給料の大半を一晩のビールにつぎ込んでしまうのは、パプアニューギニアでのビールの飲み方の一般的なスタイルなのである。
 男たちは、ビールのために強盗もするし、時には殺人だって犯す。犯罪に罪の意識はない。土地が売買の対照となることを認めない人たちがほとんどのパプアニューギニアでは、犯罪は時には男の生き方を証明する「粋」な生き方にもなる。知らない人は敵であり、強盗の対象となることには、社会的合意が成立する。知らない道に一人で迷い込んで襲われても、それは襲われたあなたが悪いのである。財布を盗まれても命さえ無事なら、神に感謝する価値がある。パプアニューギニアがキリスト教徒の国であることへの感謝を、である。
 農業の歴史が最古の地域のひとつであるニューギニア島には、アルコール飲料がつくられてこなかった。これはニューギニアの大きな謎である。酒をつくる材料は、豊富にあった。だが、好みとして酒造りの選択をしなかったのである。酒を飲んでこなかったパプアニューギニア人は、したがって、アルコールに大変弱い。すぐに酔っ払う。しかも、酒の誘惑に弱いので、飲んでも飲んでも飲むことを止めない。
 日本に研修に来るパプアニューギニア人たちは、週末の夜にビールの自動販売機の前でお金がなくなるまでビールを飲む。研修所の職員や周辺の住民たちの少なくない人たちがパプアニューギニアの研修生にたいしてそのような印象を語る。それは、一面事実である。大学を出た弁護士や高級役人でさえ、日本での研修中にビールに沈没する例は少なくないと聞く。
 
 先日、私の家に電気の修理に来た二人の電気工が、仕事が終わったあと水をだしたら、「ビールはないのか」と聞いてきた。引っ越したばかりで、冷蔵庫にビールはなかった。代わりにジュースとバナナをだした。彼らは不満げだったが、ジュースとバナナはしっかりと食べて飲んで、ひと回り見回したあと、帰っていった。
 買い物から帰った妻が、「……がなくなっている」といっていたが、私は気にしなかった。本日も無事であることが、ポートモレスビーでは、いちばん重要なことなのである。
 週末になる前に、自分用の缶ビールを1ダース買っておこうと思った。

2001年9月第1便:ペイデイ
 2週間に一度、金曜日に給料が支払われる。給料日(ペイデイ)には、朝から町じゅうが活気に満ちているように見える。酒屋は午後からは超満員。一晩で給料を飲み干すのは、この国では常識。銀行には、小切手を現金化する人たちが、行列をなす。だから、金曜日は、銀行には行かないほうが良い日ということになる。買い物などにも行かないほうが良いと忠告されている。給料のない人たちが、てっとり早い現金をもとめて、スリに強盗にと何でもあり。
 私は、週末の現金が少なくなってきたので、木曜日の午後に銀行にでかけた。すでに行列ができていた。30分以上またされた。アジア系外国人も1割以上の比率でみかけた。木材や金の売買で、中国人や韓国人が多い。
 銀行内で、こんなトラブルがあった。小切手帳にサインをしてもとの列の順番に戻った中国人を、その後ろで並んでいた韓国人の女性が英語で突然なじった。「後ろに並びさいよ」といっているのである。
 私は、そのちょとしたトラブルの意味を十分に理解していなかった。私の順番が来て、カウンターで小切手帳に金額を書き入れようとした。その時、女性銀行員に叱られたのである。「次のひとに順番を譲りなさい。あなたは、じゃまにならないところで書きなさい」と。
 私はカウンターに立ったままで、急いで金額を書きいれて、小切手を切ろうとした。しかし、こんな時こそ、うまくことが運ばない。うまく小切手の紙が破れない。あせれば、あせるほどうまくいかない。下から破ろうとこころみた。若い女性銀行員は、「なにやっているんだ」という感じでみている。早くやってよ、あとがつかえてんだから。
 ああ、大変な一日でした。ポートモレスビーの木曜日でした。
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