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「ポテトはよろしかったですか?」(1)
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《ら抜き表現》篇
賀陽 捷(かや・しょう)
日
本語の乱れについての記事をしばしば見かけます。
「見れる」「着れる」のいわゆる「ら抜き言葉」は定番の話題です。さきほども「見れる」と入力すると、《ら抜き表現》ですよ!と、すかさずコンピュータの入力ツールATOKが注意してくれました。ありがたいことです。
「れる・られる」の助動詞、すこし整理しておきましょう。「れる」は五段活用の動詞未然形に、「られる」は一段活用(上一・下一)の動詞未然形に接続して、可能・尊敬・受け身を表現します。
たとえば、一段活用の動詞「見る」の未然形に接続すると「見・られる」、「着る」は「着・られる」。
「見られる」は、1.今夜は満月を見られる(可能)、2.ご主人様はテレビを見られる(尊敬)、3.今日はちょーミニなのでパンツを見られる(受け身。ん?…可能か!?)となり、文脈から助動詞の意味するところを理解しているわけですね。
そうしたややこしさを克服するために、昨今の口語日本語は「可能」を意味するさいは「ら」を抜いて「見れる」にしよう、というルールです。はっきりいって便利です。
しかし、口語では許されても、書き言葉ではまだまだ公認されていないようで、注意しないと「ものを知らない人間」と烙印をおされてしまいます。ですから、私などはATOKがないと、おそろしくて文章が書けません。
気をつけてテレビを見ていると、民放の多くのアナウンサーは《ら抜き表現》をおそれてか、可能を意味するさいには、なんでもかでも「できる」をつけています。「見ることができる」「着ることができる」というふうに。安全ではありますが、すこし耳障りな表現に思えます。
ずいぶん前(1998年)に東大の菊地康人さんという先生が朝日新聞紙上で「止めれる・止められる」を例に面白い分析をされていました。
「止めれる」は《ら抜き表現》です。「止める」は一段活用ですからその未然形に「られる」が接続して「止め・られる」が正解。
でも、正しい日本語で「あなた、あそこに車、止められる?」と聞かれた場合、運転技量を尋ねているのか(可能)、あるいは丁寧な物言いの尊敬表現になっているのか、瞬時に判断できない場面が紹介されています。尊敬表現のつもりなのに可能表現と受け止められてしまったら、場合によっては喧嘩になるケースも予想されます。
さて、五段活用の「飲む」の可能表現は、むかし「飲ま・れる」だったそうで、それが現代は「飲める」(下一)という言い方で共通語になった。これを可能表現差別化のための<ar>脱落現象と解釈されていました。nomareruの真ん中の<ar>が脱落してnomeruになったというわけです。
なるほど、この方法で「読む」(五段)の可能表現「読める」(下一)を試すと、yom<ar>eruがyomeruに。なるほど!
一段活用の「見られる」mir<ar>eruも<ar>をとってみると、mireruとなります。
先生の結論は、五段活用動詞においては、可能表現の差別化に「ら抜き=ar抜き」現象はすでに起こっていたというわけです。それが一般動詞においても遅ればせながら生まれてきたということ。
なあーんだ。そうであればそんなに目くじら立てなくてもいいですよね。今に始まった「乱れ」などではなく、前例ある「言語の進化現象」といえるのだから。
というわけで、タイトルに掲げた本論に入る前に長くなってしまいました。今回はこれで終わります。次回に。
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