鶴見良行のメラネシア紀行(もうひとつの「ナマコの眼」)■■庄野 護
ジア学者、鶴見良行は、かれの68年間の人生で一度もメラネシアを訪問することはなかった。
一度はパプアニューギニアへの旅行を計画したが、出発直前の健康診断で胃がんが発見され手術に至る。術後の経過は良好だった。体力の回復と共に、旅なれた東南アジア、オーストラリアへの旅を再開した。鶴見の突然の死は心不全によるもので、胃がんの手術とは直接関係がない。
 鶴見良行のメラネシアへの旅は、次の2点において重要な意味をもったことだろう。
まず、鶴見の理念的理想、「国家を持たず、国家にたよることなく生きる人びと」が、ふつうに生きる地域としてのメラネシアが現実に存在していること。その存在の発見に、鶴見は歓喜しただろう。メラネシアで飲むビールは美味しかったはずだ。第二の点は、鶴見の関心のあった「ナマコ」についてだ。鶴見は、ナマコを追いかけて、インドネシアの島々を西から東に旅行した。パプアニューギニアは、その延長にあった旅の目的地であった。しかし、メラネシアの「ナマコ」交易は、もともと東側(主にサモア)に交易される産物であった。その点に、直接、中国に運ばれる東南アジアの「ナマコ」と違う意味を見出したはずである。直接、中国に運ばれるナマコを常識としてきた鶴見良行には、メキシコや北アメリカを経由してナマコが交易されていたことを知るのは、刺激的だったろう。

ラネシアは、国家でいれば、パプアニューギニア、ソロモン、ヴァヌアツによって構成されている。
フィージーは、半メラネシア・半ポリネシア国家で、首長制が成立しかかった階級社会である。ポリネシア社会の特徴が、首長制(王制)にあるとしたら、メラネシア社会の特徴は、無階級社会にある。メラネシアでは、それぞれの部族が、独立国家のごとく存在し、部族を超える権威・権力は存在してこなかった。例外的に、首長が成立している島はある。しかし、それとて「国家」ほどには成長しなかった。おもしろいのは、バヌアツなどで、16世紀頃に「王制」が成立したらしい考古学的遺跡が存在するのに、現在はそうした「王制」の面影もなくなっていることだ。民衆が王制国家を求めなかったという鶴見的解釈も成り立つだろう。20世紀後半になって、近代社会が、国家としての独立を強制しても、その基本形態に変化はなかった。メラネシアにおいて、国家は、部族のバランス・オブ・パワーによって維持されている。国民意識も希薄で、国家の軍隊どころか国家警察も事実上存在しない。そのように、鶴見良行が、理念としてしか想像していなかった国家なき社会が現実にメラネシアには存在しているのである。

ァヌアツの共通語は、ビスラマとよばれるメラネシア・ピジン語の一種である。
ビスラマとは、ビーチ・ラマー(なまこ)のことである。ナマコ交易語が、その語源だとされるが、ビスラマの普及に最も大きな影響を及ぼしたのは、「奴隷貿易」である。最初は、サモア。後にはフィージーやブリスベン(オーストラリア)のプランテーションに奴隷が運ばれ、3年の任期を終了すれば送り返されるという制度が大規模に存在していた。鶴見良行の正義感なら、その後の研究がメラネシア奴隷交易史に向かっていたかもしれない。そうした推定は、鶴見アジア学の可能性を想像力によって広げることにもなる。

にも少し触れたが、ナマコ交易者も奴隷交易者も最初は東からやってきた。
すでに開けていたサモアからの商人であった。交易者とともにキリスト教の普及者もやってくるが、同様にサモア人が多かった。白人のキリスト教普及者たちは、犠牲者を多く出して、代理人としてのサモア人を養成して送り込むようになったのだ。キリスト教普及者は、同時にナマコなどの交易商人であった。メラネシアのナマコは、いったん東側に運ばれ、アメリカまたはヨーロッパを経て中国に運ばれた(と推定する)。メラネシアのナマコが最短距離のルートで中国に運び込まれるようになるのは、19世紀後半から20世紀に入ってからのことだったと現在の私は推定している。その時期は正確には多少ずれるかもしれないが、いずれ、だれかの文献調査が明らかにしてくれるだろう。
 メラネシアから東側に持ち運ばれるナマコ。その点が鶴見良行にとって新たな発見となり世界商品としてのナマコの説明がさらにダイナミックになったことだろう。そんな想像をしながら、『ナマコの眼』を読み返すと楽しい。
南船北馬舎

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