パリ1970(松元省平)
 高橋和巳と70年代パリ   ◎写真:松元省平
  ◎牧師 元 正章

 今春、知友の清眞人くんから『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』(藤原書店)を寄贈され、それに触発されて、『邪宗門』(高橋和巳著)をほぼ50年ぶりに再読した次第です。今さらの感なきにしもあらずではありますが、私という男も「邪宗の徒」であることを痛感させられました。嘆くことか、それとも、誉れとすることか……。
 もう半世紀前のこと。それが、どうしたのだと言われれば、返答に窮することもなくはないのですが、このたび『邪宗門』を再読して、急に走馬燈のごとく蘇ってきたのです。
 20代前半,青春時代の真っただ中、ヨーロッパで過ごした2年半の放浪生活のことです。若気の至りとはいえ「よくぞまた……」と、我ながら苦笑を禁じえません。1ドル360円の為替時代に、宿泊費も含めて1日10ドル以内でヒッチハイクをしていたのですから、驚き桃の木山椒の木です。もとより異邦人宣教者パウロの受難ほどではないのですが、危険な目に遭ったことは数知れず、よくぞ無事に帰国できたものだと思わざるをえません。でもそれは決して「奇跡の生還」といった大袈裟なものではなく、振り返り見れば、当時の若者たちの「さまよえる群像」の一形態であったと客観視できます。
 なかには、どこかの国に拉致されたり、奴隷の身に売られた者がいたとしても不思議ではない情勢にあって、病に罹ることなく、とことん貧乏旅行を貫き通せたことは僥倖というほかありません。ロンドンからイスラエル・香港経由で羽田空港に降り立ったとき、所持金は1000円しかなく、その日の夜は新宿の深夜喫茶で過ごしたことなど、まさに「よくぞまた……」でありました。翌朝、学生時代の友だちの下宿に転がり込み、そこで聴いた浅川マキの曲は、自分という人間が所詮は「詮方ない日本人」であるということをつくづく思い知らされました。外国に行って、日本回帰したのです。一時はもう、外国のものは読まないとさえ思ったものでした。それがまた、なんということか、紆余曲折はあったものの長じてキリスト教の牧師になるなんて、神さまも人が悪い。
 それにしても、あのときリュックサック一つの中にしか自分の全財産はなかったけれども、それでも怖くはなかったし、将来への不安もなかった。ソニーのトランジスターを聴きながら、ミシュランの地図を片手に次のユースホステルを目指して、ヒッチハイクを続ける「さまよえる若者」の姿は、高齢者になった今も、「ここに、われありき」と独りほくそえんでいます。余裕な金もないのに、レコード店に入って、チェコのバイオリン奏者ヨセフ・スークの「バッハ無伴奏バイオリンのためのパルティータ」などのLP盤を買っ て、それを後生大事に持ち歩いて旅するなど、どう考えても異常としか思われません。
「青春って、バカの丸出しだ」と、懐かしさを超えて、一筋の涙が頬に流れてくるような憐憫の想いに浸らないでもありません。
 そんな常識外の生活をかつて送ってきた者として、では、今、これから、どのようにこの時代と向き合って生きていかねばならないのかを問い質す意味合いを込めて、この文章を認めています。老いの文でも、回春の記録でもなく、「人生とは何ぞや、人はどこから来て、どこへ行くのか。お前はいったい誰なのか」を、あらためて問い直したいからです。
 この年になったからではなく、この年からやれることは何かを探っていく手掛かりとして、「ある人」のことを回想しようとするのです。その対象は、「あなた(you)」でもいいかもしれません。しかし、今おつきあいをしている人よりも、今やどこにいるとも知れず、記憶の底に埋まったまま、おぼろげな印象しか残っていない「ある人」を、ここで再現したい、それがまた、「復活」ということにも繋がっていくことでしょう。「よみがえり」。角田さんという一人の男の復活物語です。
 小人伝説──小さき者へ
 世に「巨人伝説」は多々各分野にあって語られています。それが虚人伝説になることも、しばしば見られる現象で珍しくもありません。「おおいなる者であれ」と目指すのではなく、角田さんの場合、小さき者にあり続けようとされたと思いたいのです。ルカ福音書に出てくる「貧しい人々は、幸いである」「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も大きいのである」を、彼はなにも標榜したわけでもないでしょうが、彼が歩まれようとされた姿は、まさに一労働者として地べたに暮らす生き方でした。
 学生運動が下火となり、青春の挫折を味わった者の中には、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』に触発されて、最下層の工場労働者の中へと入っていった人もいましたが、彼の場合は、宗教的な動機や献身的な犠牲精神は感じられず、ごく自然に無産階級の一員になったように思われます。それはどこか、須賀敦子さんの小説『コルシア書店の仲間たち』の主人公、彼女の夫でもあったペッピーノと似ていないこともありません。偉ぶらず、高ぶらず、飄々として、安楽椅子に凭れながらパイプを喫っている姿は、世間と超絶した仙人というよりも、どこにでもいるような庶民のおっさんタイプでしたし、それがまた一枚の絵になるような風景に溶け合っていました。服装はぜんぜん構わず、髪はボサボサで、松本清張を思わせるような厚い唇の赤黒さは精悍さそのものでもあり、そこには東大卒のインテリゲンチャのひ弱さは微塵も感じられませんでした
 角田さん。私よりも一つ上だったので、当時24歳か。彼はパリに来るまで、一年間ドイツの町工場で一労働者として働いていました。その間、シューベルトの歌曲集『冬の旅』を全曲ドイツ語で暗唱していたと聞いたときは、「へえ」とびっくりしたものです。
 彼とは1970年の夏ごろ、パリの日本レストラン「美津子」で出会いました。私はその年の4月、横浜港を出て、ナホトカ経由からシベリア鉄道でモスクワに行き、そこから目的地のパリに着いたものの、何一つあても頼りもなく、まずは職探しと見つけたところが、「美津子」でした。そこは名ばかりの日本食レストランでした。日本人客はほとんどいなく、それもそのはず看板のすき焼きは、南米産の冷凍肉をスライスして、ソースで胡麻化しているような料理でした。そこの雇われマスターが、角田さん。そこの給仕役は、はるばる日本から追いかけてきた彼の恋人。そして私はなんと一応コック長という肩書。その料理たるや?想像しないほうが無難というもの。まあ、料理というよりも、材料を適当に捌き、盛り付けする程度なのですから、おこがましくもコックなんて言えるはずもありません。それでもコックの白い帽子を被ってキッチンで働いていたのですから、「事実は小説よりも奇なり」です。
 仕事が終わると、よく彼の住むアパートに行っていました。そこで何をしていたかというと、将棋を指していました。彼は東大時代、将棋クラブに入っており、紙で作った即席の盤上でしたが、互いに譲らずの真剣勝負でした。私の実力は、小さいころに縁台将棋を見よう見ながら覚えたもので、研究したものではなかったのですが、筋が良かったのか、近所の大人を相手にしても負けませんでした。小学校4年の時、放課後担任の先生(*注1)と将棋を指したとき、余裕をもって勝ったことなど遠い昔の自慢話の一つです。

*注1)「担任の先生」:授業中、試験の答案用紙が配られました。100点満点でした。隣の生徒の用紙をちらと 見ると、10点で、悲しそうに俯いていました。すると、どういう衝動に駆られたものか、 わけもなく、答案用紙を破ってしまいました。それを見て後ろの生徒が「元くんが、破った」と大声で叫びました。先生から前に出るように言われると、弁明も聞かずに思い切り殴られました。「廊下の外に出て、反省しろ」。後日放課後、先生と将棋をして勝ちました。先生、10歳の小僧に負けたものですから、黙ってうつむいたままでした。
 彼とは最初のころ互角でした。東大なんて恐れるに足らず。それがあるとき、自分が有利に駒を進めているのが分かってしまったので手抜きをしたところ、後半に逆転されて負けてしまいました。問題なのは、その後の展開です。どうしたことか、何度勝負しても勝てなくなったのです。こちらの手の内をすっかり読み取られてしまったのか、どう頑張っても負けてしまうものですから、それっきり将棋を指すのを止める始末となりました。
 昔々のなんということもないエピソードの一コマです。彼にしてみれば、「へえ、そんなことがあったのか」ぐらいの記憶の片隅にも残っていない出来事でしょうが、私にとっては欠かせない想い出でした。
 さて角田さんから伝授されたものに、パイプがあります。彼がじつに美味そうにパイプをふかせているものですから、さっそく門前の小僧よろしく真似ることにしました。最初のころは、途中でよく火が消えてしまったものですが、葉っぱをいっぱい詰めて、吸いなれると、1時間ぐらい持ちます。そうしてコーヒーを飲みながらパイプ片手に読書するひと時は、貧乏な者にとって至福の時ともなりました。いつかダンヒルのパイプを買おうと、それが夢でもありました。帰国してから、ようやく手に入れたものの、パイプ煙草は体に合わないのか、喉を傷めてしまい、結局は元の木阿弥で紙タバコになってしまいました。それにしてもパイプの匂いはまた香り高く、短いお付き合いでしたが、パイプといえばどうしても角田さんのことを思い出します。
パリ1970(松元省平)
 角田さんには、いつもそばに女性がいました。決してもてるタイプではないのですが、なぜか女性の方からくっついてくるのでしょうか。美津子で共に働いていた女性は、彼が学生時代、「東大襖クラブ」(*注2)でバイトしていたお家のお嬢さんで、その家庭教師をしていた縁で知り合ったとのこと。それが1年後、彼がパリで生活していたものですから、追っかけてパリくんだりまでやって来たのです。会っていない間、互いに文通でもしていたのでしょう。世紀のラブロマンスというほどではなくとも、はた目には随分と羨ましい限りでした。彼女はいわゆる山手出自の良家のお嬢さんタイプで、彼の生き方に共感したというよりも、彼の学歴に魅かれて一緒になっているようなところがありました。ですから、一刻も早く帰国して、まともな生活をしてほしいと望んでいたことでしょう。もとより、外から眺めているに過ぎないのであってみれば、ふたりの内々の気持ちや関係が分かるはずもありませんが、どこか互いにずれているのを、それとなく感じました。彼女にしてみれば、いつまで経っても埒があかない、何を考えているのかよく分からない男など、もういい加減にしてくれと思われても致し方ないでしょう。彼には一向に帰国する意志はなかったのでした。

*注2)「東大襖クラブ」:東大襖クラブは、創部約60 年の歴史を持つ伝統的なサークルで、主に一般家庭の襖と障子の張り替えの依頼を受けている。2019 年10 月末現在、部員は学部14 名、修士6 名の合計20 名。
 その後、私は1年半のパリ生活に見切りをつけ、スイスのローザンヌのイタリアンレストランに出稼ぎに行き、北ヨーロッパをヒッチハイクした後で、半年ぶりにパリに戻ると、角田さんは引っ越ししており、工場労働者として場末のアパートに独りで住んでいました。泊めてもらうと、部屋には冷蔵庫が置いていました。当時、貧乏所帯に冷蔵庫があるのは珍しかった。そこで彼は手製のマヨネーズを作って、ご馳走してくれました。そこへある女性が突然現れて、一緒に食事をし、そのまま二人はベッドに入りました。こちらといえば、隣の部屋にて寝袋で寝ました。彼女は良家のお嬢さんタイプではなく、通訳の仕事をされていたのか、気さくな人柄で、気を遣うこともありませんでした。
 その意味では、角田さんに相応しい女性だったかもしれません。彼に対して上昇志向を期待するようでは、うまくいくはずもないのです。いったい彼は何が理由で、パリに留まろうとしているのか、それも底辺労働者として生活しようとしているのか、そのことを聞かずじまいで離れてしまい、以降もう会うこともなくなりました。
 そうそう、角田さんを通じて、高橋和巳の本を読むようになったのでした。彼の推薦本はマニアックなもので、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』、小栗虫太郎のゴシックロマン『黒死舘殺人事件』、夢野久作の幻の名著『ドグラ・マグラ』など、知る人ぞ知るといった内容のものが多くありました。それらの書をパリで知り、互いに読書感想を語り合うのですから、傍から眺めれば、随分と「おかしな二人」だったでしょう。
 高橋和巳は、当時の学生にとって、吉本隆明と並んで双璧をなすほどに流行作家でした。それだけに、天の邪鬼でもあった私は敢えて読むことをしませんでした。それが彼に紹介されて読み始めると、もうすっかりハマり込んでしまったのです。そして、日本にいる友だちから何冊も送ってもらいました。帰ったら、彼の本を全部読もうと秘かに決意したものです。
 今日、高橋和巳の本はまず読まれることなく、その名前もほとんどの人は知らないでしょう。まさに50年ひと昔、隔世の感があります。『捨子物語』『悲の器』『散華』『貧者の舞』『堕落』『憂鬱なる党派』『白く塗りたる墓』『我が心は石にあらず』『日本の悪霊』『邪宗門』など、その書名からして暗く、憂鬱にならざるをえない内容です。それを当時の若者はこぞって読んでいたのでした。私もまた少しは遅れてきた読者でしたが、高橋和巳ワールドの中で悶々と生きていたのでした。
「死ぬ間際に、彼は、顎を震わせて何かを言おうとした。女行者がそっと、やさしく、男女の性別を超えた、聖なる優しさで彼の肩を抱き、耳をその口許に寄せて、二、三度しずかにうなずいた。(中略)指導者の口が魚の呼吸のように開閉し、そしてがっくりと首を前に折った時、その女行者の口から、涙のように血がしたたり、そして噛み切られた舌の先が、ぽろりと膝の上に転がった。何のつながりあってか、どうした恩顧あってか、女行者の死は、餓死ではない。あきらかにその先達のあとを追う殉死だった。」(『邪宗門』第30章 餓死より)。
 私という男は、今も昔も「邪宗の徒」であることを、ここに誓います。そのことは嘆くことでなければ、誇ることでもありません。あるがままに、生きているだけのことです。

     ──まど みちおの詩「もう すんだとすれば」より抜粋。
     暗いからこそ 明るいのだ 落ちていきながら 昇っていくのだ
     遅れすぎて 進んでいるのだ なんでもないことが 大変なことなのだ

 角田さんとはもう50年ちかく、音信不通です。いま、どこで、どうしているものやら。茨城県土浦出身とまで記憶に残っていても、その下の名前は失念してしまいました。もしかしたら、日本に帰っていて、晴耕雨読の毎日、近所のおじさんたちと縁台将棋を楽しみながらパイプをふかしているのかも知れません。角田さんの想い出をまとめるにあたって、『星の王子さま』の最後のセリフが一番ふさわしいでしょう。
 「王子さまがもどってきた、と、一刻も早く手紙を書いてください。」

 フランスの作家フローベルは、『ボヴァリー夫人』を書き終えたとき、こう言ったといわれています。
 「ボヴァリー夫人、それはわたしだ。」

【元 正章】はじめ・まさあき
1947年神戸市生まれ。日本基督教団益田教会牧師(島根県)。早稲田大学政経学部卒。卒業後、ヨーロッパを2年半放浪。帰国後、神戸市内の書店に勤務。市民団体「六甲を考える会」代表を務め、街づくり活動に従事。のちに神戸市議選に出馬するが落選。95年の震災を経て、53歳の時書店員を辞め、関西学院大学大学院に進み、神学を修める。兵庫県高砂市の教会に牧師として赴任。続いて西宮市の教会を経て、2017年島根県の益田教会に着任。現在に至る。
【松元省平】まつもと・しょうへい
1948年岡山市生まれ。写真家。佐賀大学理工学部卒。写真集に『人間の村』(水兵社)、『神戸84/86』(風来舎)、『静謐のサハリン』(南船北馬舎)、『海街』(風来舎)など。
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