ダッカ回想 庄野 護
ダッカでお世話になったNGOの事務所は宿泊所を兼ね備えていた。幅10メートルの道路に面した平屋の借家である。事務所用に3部屋、宿泊用のゲストルームが2部屋あった。
朝、事務所の現地スタッフが来る前に朝食をすます。現地雇用の事務所員は6名。会計担当者1名、フィールド・コーディネーター3名、住み込みの男性料理人と通いの女性清掃人が各1名。地方からの農民の来所や他のNGOからの来客も多く、さらに日本人の出入りも激しい。ゲストルームを利用する日本人は多いときで5名、少ないときは私ひとりだった。
男子用の部屋には3つのベッドが平行に置かれていた。常駐ボランティアと私で両隅の2つのベッドが使われ、真ん中のベッドは旅行で訪れる日本人用にキープされていた。地方で活動する他のNGOの日本人が来たときなどにも利用される。日本人の来客では、洋酒や日本食を持参してくる旅行者が歓迎された。宗教的に原則禁酒のバングラデシュでは、酒を入手することも飲み場所を確保することもむつかしい。で、NGOの宿泊所が酒場を兼ねていた。
新しい洋酒の瓶をさげて客人がやって来ると、夜は宴会となる。食卓のテーブルを囲んで、日頃のストレスの一部が酒で発散される。しかし、そのあとが大変。宴のあとは、その夜のうちに片づけてしまう。空瓶やつまみの袋が残ると、翌朝出勤してくる回教徒のスタッフや使用人を刺激することになる。ソーセージや豚肉料理などは、とくに痕跡を残せない。料理人が見つければ、豚肉料理をした食器はもう使えないと言うだろう。彼は仕事を辞めるかもしれない。日本人向き料理のできる彼を失っては、業務にも支障をきたす。そんな深刻な理由もあって、翌朝までには飲みのこした酒もどこかに隠される。
一夜の宴会で客人たちが残すのは、酒瓶だけではない。本や資料も人が訪れるたび増える。本棚に蓄積されてゆく本のおかげで、読書には不自由しない。なかでもダッカ滞在中に何度も読みかえした本は、中岡哲郎著『私の毛沢東主義「万歳」』(築摩書房・1983年)であった。この本がバングラデシュの開発問題を考えるうえでもっとも参考になった。
『私の毛沢東主義「万歳」』は、近代化を急ぐ現代中国の実態が著者・中岡氏の目を通して描かれている。1970年代から80年代前半の、近代化を急ぎ過ぎる中国の観察である。中国の経験を通じて日本の工業化の歴史をふりかえるところが中岡氏の独自の視点となっている。そこで示されるのは日本と中国の近代化における共通点と相違点である。先行した日本の工業化過程を通じて、中国の近代化の問題が見据えられている。たとえば、70年代後半の中国の経験は、明治期の日本の工業化における試行錯誤によく似ていることが明示されている。しかし、この議論は中国人官僚や他の第3世界の学者や政治家がもっとも避けるテーマである。自分たちの国づくりを日本の100年前と較べないでくれ、というのが彼らの本音なのだ。議論はかみあわない。しかし、中岡の視点は、バングラデシュなど第3世界の開発を考えるうえで有効な方法であると私には思えた。
中国をふくめて発展途上国の(当時、80年代前半の)国民は、日本の工業化過程について良いイメージだけをもっていた。公害を生んだり、管理的労働で個人が疎外されている実像には関心がなかった。そのことに気づいたことが、中岡氏が著作にとりくむ動機となっている。中国で中岡氏が見たのは、工業化をいそぐ技術者や実務担当者の姿であった。高度成長期の日本を観察してきた中岡氏は、日本の工業化についての正確な歴史認識をもつよう中国側に説明をするが受け入れられない。それは、次のような歴史だ。
第2次世界大戦後の20年で日本は高度成長を達成したと第3世界では認識されている。しかし、それは誤解だ、と。第3世界の指導者たちは日本の工業化の最後の20年間だけしか見ていない。そして、20年で日本のような工業化が達成できると夢想している。日本は高度成長までの前段階に100年を費やしていることへの注意が必要だ。日本が第2次大戦の廃墟から20年で立ち直ったのは事実である。しかし、廃墟となる前に100年にわたって築き上げた工業化の土台があった。その土台の上に高度成長が可能となった。
しかし、工業化の土台づくりについて、途上国の技師や政治家たちは注意をはらっていない。その点の危険性を中岡氏は中国側に警告する。が、議論はすれ違い、堂々めぐりとなる。
こうした議論のすれ違いは、バングラデシュで私が経験してきたことでもあった。バングラデシュのNGO関係者と交わす会話と同じなのだ。彼らが求めてくるのは、具体的援助である。「援助」にたいする過大評価が現地の当事者に見受けられた。私が議論したいのは、援助の先にある夢や展望についてだった。しかし、私の問いの意味は相手に伝わらない。もどかしさを感じていたとき、中岡哲郎氏の著作に出会った。
近代化や開発の困難は「時間」にあると私は考えていた。近代化や開発の「速度」とも関係する「時間」の問題である。時間という要素にふれない開発の論議が多すぎると感じていた。しかし、中岡哲郎氏は工業化の歴史を論じるなかで「時間」の問題をあつかっていた。
開発は、文化や人間の行動様式にまでかかわる社会現象である。何世代にもわたる時間の影響を受ける。開発の結果として、社会変化を生んだ開発だけが良い開発とされる。しかし、60年代からの開発の歴史が示すように、良い開発はほとんど存在しなかった。開発政策が成功していれば世界の貧困がこれほどに拡大することもなかったはずだ。援助国が計画したようには被援助国は発展(開発)しなかった。
バングラデシュや中国では、70年代に入ってから「近代」をめざす開発が始まった。が、どちらの国も先行した途上国の経験に学ぼうとしなかった。日本のような先進国にだけ学ぼうとしてきた。中国の場合、中岡哲郎氏のような友好的専門家の助言さえも聞き入れなくなった。
バングラデシュには、独立後の援助で次々とディーゼルエンジンの農機具が送られてきた。それらは数カ月のうちに至る所に打ち捨てられた。1年を超えて使用されるものは1割にも満たなかった。第1の理由は、農機具が風土に適していなかったからだ。第2の理由は、保守管理の不在。この理由のほうが深刻だった。たとえ風土に適していなくとも可能な利用方法が根づく場合もある。タイなどでは農機具が農具としてでなく、運送手段として定着している。しかし、保守管理の技術がなければすぐに動かせなくなる。バングラデシュや中国の特徴は、農業や機械を知らない官僚が農業開発を計画してきたことにある。
別の例になるが、バングラデシュの長距離バスは定員以上の人や物を載せて猛スピードで走っている。当然、事故が多い。バスという機械を正しく運転しなければ、運転上の損失は大きくなる。事故で多くの人命が失われている。「安全運転」という概念が受け入れられるまでの「時間」がみんな待てない。
とはいうものの、日本も同じような経験を経てきた。明治時代、西洋の機械にはじめて接した日本人は、機械との対応が適切にできなかった。中岡氏の著作では、機械の部品を持参して芸者遊びをする工場経営者が描かれている。近代工場のシステムが合理的に運営されるまでに日本では30年という時間を要した。
だからといって、バングラデシュを日本の明治時代と同等に論ずることはできない。明治時代の日本の経験を学べということは、途上国の政策立案者の神経を逆撫ですることになる。バングラデシュの人びとは明治時代を生きているわけではない。ある途上国が日本に較べて「50年遅れている」とか「100年遅れている」とか表現するのは止めたい。どの国の人びとも等しく現代という同時代を生きている。
韓国や台湾は80年代後半から、日本が開発に20年かけた電気製品などを半分の時間で開発している。工業化の速度では、日本はそれらの国々にすでに追い越された。いっぽう、韓国や台湾の影で工業化がいっこうに進展しない途上国も多い。また社会の産業化がすべての国家や民族の目標とはなりえないこともはっきりしてきた。たとえば産業化社会を目指さない民族文化として回教文化の台頭がある。キリスト教文化圏の人びとの回教文化にたいする恐れは、産業化社会を進歩とする価値観の反映でもある。
多様な近代化の「型」のなかで、日本をモデルにした工業化はもはやどの国にも現実的ではない。開発の過程は、各民族によって固有の速度と内容をもつという認識が求められるだろう。
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