1.17 震災メモローグ   元 正章

1月17日未明 就寝中、突如激しき揺れを感ず。余りのひどさにただならぬ事態を想起す。山手にありて、5階建てのマンションの3階、建物の崩れてしまうのではなきかと恐れる程であり。ありうべからぬことに、夢の続きかと思いし。本が数冊、棚から落ちし。電気消ゆ。メガネ探せどなかなか見つからず。暗闇の中、ライターの火を頼りに、あたりを見て歩く。これという被害なし。窓を開け下方に目をやれば、あちこちに火の手あがり。未だ信じられぬ思い強し。しばしラジオをつけたままにして、横になる。情報ははっきる掴めず。階下に降りると、十数名の人集まりあり。みな不安気。なかに車に乗りし家族連れあり。その時の会話は、まだ余裕ありてか危機感なし。それぞれに我が部屋に消ゆ。陽がのぼりて、玄関に置きし備前焼の壺割れしに気付く。ラジオからの情報では、未だ全体を把握しえず。出勤時を気にすれど、10時頃いつもの姿にて出づ。阪急六甲駅までは、いつもの風景と変わらず。JR六甲道駅の惨状ぶりを見て、はじめて事の重大さを思い知る。高架のホーム陥没し、1階の店すべてペシャンコに潰れし。もし人おりせば圧死間違いなし。その南側にありし店を見れば、シャッターは閉められたまま。店内に入る。棚詰めの本すべて倒れ落ち、さながらフロワーは本の海の如し。中に入るを能わず。到底営業不可。連絡したしたれど、公衆電話は長蛇の列。諦めし。その東側十数分歩きし所にある神和教会に向かふ。途中あちこちに倒壊家屋見ゆ。路上にも倒れし家が道を塞ぎ、マンション傾き、まっすぐに歩くこと能わず。我が教会を見て、茫然自失。礼拝堂屋根のみ残し廃墟。牧師館のみ原状。集まりし数名の教会員も成す術もなくたたずむのみ。近辺歩き見る。形状しがたし。半数近くの家屋が倒壊もしくは半壊。埋もれし人を運ぶ光景いくたびか見ゆ。少しく被害を受けしタバコ屋にて食料品を買いため、教会に差し入れす。帰途、知り合いの家々を訪れつつ、歩き帰る。3時頃帰宅。電気通じてあり。新聞朝刊は着かず。テレビ見続ける。ラジオと違いて臨場感あり。火災各所にて発生す。されど未だそれがこの神戸で起きているとは感じられず、半ばほうけた状態でありし。夕暮れ、妻の運転する車で、握り飯と水とを教会に持ってゆく。倒壊した教会員は家族全員W氏宅に避難。帰りてテレビに釘付けのまま、今日一日を過ごすことになりし。電話は不通。これが現実とはまだ信じられず。余震いくたびも感じつつ、浅き眠りに就く。

1月18日 神戸新聞朝刊見る。兵庫烈震死者1300人と大見出し。4頁立て。本社機能壊滅したため。昨朝のラジオ報道では、死者数十名でありしに、1日にして千名を超しき。行方不明48人とは、情報不足とはいえ余りにも少なき数字。10時頃家を出る。歩いて30分余り、店に着きし。シャッターは閉まったまま。百坪の店内、本の上を歩くのは忍びがたく、ともかく歩く道をつくる。事務所内はロッカー倒れ、足の踏み場なし。散乱と表しよりも壊乱。裏戸口を開くる手立てをするだけでも、数十分間要しき。これが本なりしか。書名も著者も黙し、単なる紙の山でしかなし。言うに言われぬ想い残して、店を辞す。足は教会に向かふ。生き埋めにて母親を亡くし教会員の子供3人の姿見ゆ。励ましの言葉なし。倒壊せし家にて、貴重品盗まれし話聞く。命助かりしものの、かくした被害はその後もあちこちで耳にす。歩き登りて帰途に着く。途中神大前の公衆電話、人の並びし少なきにようやく電話可。友人の無事なりしをほっとす。帰りて早速握り飯を作り水を添えて、近し人達に配り回る。この時点にては、飯と水は貴重なりき。握り飯1個5千円で売りしと又聞きす。夜の神戸南部はゴーストタウンの如し。道
々亀裂走り、今にも倒れ落ちし建物の前を車進み往き、されど不思議に恐怖感なし。手持ち食糧調べるに、餅・小麦粉等3日分はあり。エネルギーはポットとホットプレートがあり、一安心せり。以後空腹感味わうことなし。専ら煙草にてごまかしき。スナック菓子、即席ラーメン、パンが主食。余震相変わらず起これども気にならず。遠くにて、火事を目にし、サイレンの音を聞きつつ、深更何時の時間か眠りに就く。

1月19日 明けて3日目。10時過ぎに起床。死者の数3千人を超す。同じく神戸に住みながら実感し得ず。生活の不便こそあれ、このあたり被害ほとんどなし。水を配りて後、正午過ぎ店に出かける。途中主だった人に電話す。W大関係にはM先輩に連絡託す。阪急六甲駅のさくら銀行は開いてあり。娘の受験料を納める。入店客少なし。車にて牛乳、果物売りてあり。店も幾店か営業してあり。幾分高めに思えども買うことにす。それらを罹災者に配り回る。店には4名待ってあり。従業員の安否を尋ぬるに、全員無事とのこと。しかし、両親が圧死。また学校に避難者3割との報に唖然とするのみ。この後知人宅を回り歩く。幸・不運合い乱れ言葉なし。山口組が住民に救援物資を配っていて多くの人が並んでいるとのこと。見聞する限り、ヤクザの対応が一番早かった。帰宅すると、北区に住みし友人がバイクにて米を持ってきてくれし。ガソリンがなくなってきており、スタンドの多くは開店休業故心配せしも、幸いにして満タンにしえり。非常時にありて妻の運転せし車は大いに役立てり。時に渋滞に巻き込まれしも、重たき荷物運ぶに、人力では限界ありき。水道使用不可となりし。マンションの貯水タンク無くなりし故。浴槽に満杯しており、以後その水にて、トイレと食器洗いに使用す。夜、近くにて湧き水の出し所発見せり。その情報をH氏に教えしに感謝され、氏の電話借りうる。そこから三十数名に電話せしども、4〜5名しか通じず。無事の家にて、ビール御馳走になり、ほろ酔い気で帰る。家にて顔洗うべく蛇口ひねれども水流れず。被災家族を憶ふ。

1月20日 死者、不明4千4百人との大見出し。この日も午前中は水の配達。各所で救援物資が届き出し、パニック状況は脱す。避難生活を送りし人も自宅に帰り、一安堵といった感じ。ある家では片付けに追われ、ある倒壊した家では貴重品探しに精を出しき。少しずつであれ復興の兆しあり。ただ黙々と作業している姿が印象的なり。娘の受験票を郵送するため、灘区の中央郵便局に車で行く。そこでは受験料受けつけず、神戸駅近くの中央郵便局に行くことになりし。渋滞を覚悟せしど、さほど困らず。テレビで見し三宮周辺を実地訪れて、別に感ずることなし。コンクリートの建物はどこまでも無機的であり、人の匂い無きためか。神戸一の繁華街が半ば崩れ落ちて、都会文化の虚しさを感ず。一体文化とは何か。ハード部分が機能停止すれば、文化なるものも意味喪うものなりきか。そうした次元での神戸文化論でありしか。今まで紹介されし神戸とはカッコよく、ハイファッションがその代名詞であった。さて実態たるや、神戸人の生きる逞しさ、生活者としての意欲、情の深さ、近隣同士の連帯感の強さが目立ち、テレビで話されし神戸弁がかくも柄の悪し言葉とは灯台下暗しといえど、意識せざりし。さりとて東京弁がきれいというのではなく、部外者故の報道姿勢のためか、違和感起こせしアクセントでありき。かくした状況下にありては、論を述べし人は卑し。相手をして語らしめる人は並し。しかして、ものみな並でありしことで、感化力強し。被害蒙むりてなお語らざる人は恐ろし。帰途、灘駅に寄る。そこで、テント生活送りし人達三十数名あり。知人7名その中に発見せり。まるでサバイバル生活を楽しんでいるが如き。聞くにこの3日間、市からの援助なくほとんど自力で暮らしてきたとのこと。そこで行政から支援求めるべく区役所に赴き、トラックにて必要物資を運ばしめる。その後、教会へと。ライフラインすべて途絶えし牧師館にて暫し過ごし、帰途に就く。夕暮れ時は、大体道路渋滞せり。夕食は野菜炒めとカップラーメン。腹はふくるるのだが、満腹感なし。妻が車で外出して3〜4時間と経つ。心配になる。電話不通のため、待つしかなし。外の公衆電話の所に行きしかど、神大キャンパスに駐屯せり自衛隊の人が既に並べり。そのうち妻帰り。聞けば、友人宅を回りし由。一言言ひて行けばよきものを、待つ身なりせば取り越し苦労に疲労す。我が身振り返りて独り苦笑す。この夜11時頃、教会のY夫妻突如訪れ、宿泊希望す。改めて食事しなおし、ビールとコニャックを飲む。現状は厳しなれど、楽しき晩餐なりし。1時頃就寝。

1月21日 死者、不明5千人超すとあり。今やそれなる数字にも余震にも驚かず。テレビ番組も食傷気味。時代劇でも見て、現実を忘れし気に襲わるる。この日は高2の息子を連れて、教会の後片付けをすることとなる。肉体労働も結構楽し。こうした働きは滅多にあることでなし。思えば貴重な体験をさせてもらっている。金を積みしも味わえることでなし。今はまだ妙な連帯感、共同体意識ありて、苦が苦として自覚薄し。そのうちいやがうえでも本来の現実の厳しさを味わうことになろうが、この執行猶予の時期にありて、見聞体験せしところは出来うる限り見届けたし。それも余裕持ちて。汗を流して後、息子は働かせて、暫し自転車にて阪神新在家駅周辺を回る。この地の惨状甚だしく、木造家屋はそのほとんど半壊倒壊せり。某家族は我が家見捨て、神戸を離れり。無理もなし。公園にての避難生活など、それが受け身にて強いられれば3日として過ごせしものでなし。飢えと寒さと孤独感、そしてなぜこんな目に遭わなければならぬのかといったやるせなさ、先への不安焦燥。これはこれ、それもまた愉しからずやといった気持ちの持てる人なりしかば、普通耐えられるでなし。大正建築で有名な甲南漬本舗も物の見事に倒壊。阪神電車のレールがひん曲がって路上に晒せしを見つつ、教会に戻る。我が教会も屋根残りしも無様な形態に変わりなし。日暮れて、親子3人車にて帰宅す。帰るねぐらのありしを感謝したし。朗報。電話通じてあり。いつかはあたりまえのことなれど、日常生活の便ひとつ確保しえり。この夜、家族全員それぞれに電話しまくる。その間をぬって電話の音聞こえり。懐かしき友の声耳にしえり。ありがたきかな。また、電気グリル鍋手に入り久しぶりに鍋料理を味わう。冬は鍋に限るとはたれが言いし。材料粗末なれど美味し。

1月22日 100時間ぶり3人救出 雨災害警戒 死者4693との大見出し。はや5日目を迎えし。曜日の感覚薄れし。今日は正午から日曜礼拝。道々知人の安否を尋ねて教会に向かう。一軒は大阪に避難せり。立入禁止となりしマンションが目につく。全館無人のマンションは不気味なり。8階まで階段登りてその号室にたどり着けば、避難先の貼り紙あり。ともあれ無事なる由にほっとす。教会には十数名集まりし。普段の3分の1。明石から4〜5時間かけて来し夫婦は、小雨降る中を傘もささず、余りにも変わりし会堂を見て言葉失いて佇みき。会堂で礼拝する予定なりしが、やはり危険と言ふことで牧師館に変更す。みな靴をはきたまま居間に集ふ。出席せし中には住む家なくし3家族あり。それぞれの想い抱きて神に祈る。イエスの時代も同じなり。路路に病める人あり、悩める人あり、家無くし人あり。イエス何したまいき。この今の神戸にありて、イエス見ざりき。イエス現れざりき。内なる世界と外とが乖離せしところにイエスは存せず。イエスなりし人はただただ現実を凝つめられし方、戦いし方。しかして、十字架につけられし。キリスト教は排他的な宗教なりし。困りし人同士相互けあう精神に欠けり。惻隠の情薄し。人よりも神に向かふ為なり。仏教系は然にあらず。今、様々な宗教団体がボランティア活動を行えり。やむにやまれずとの心意気、それはよし。されど、キリスト教は深き淵よりの宗教なり。現象の奥を見続けることなり。2時に店に寄る。集まりし3人で貴重品を運ぶ。途中激しき余震あり。これ以降、立入禁止となりし。その後灘駅に向かふ。例のキャンプ生活し人達相変わらず逞しく暮らしてあり。彼等の連帯意識強き感あり。懐中電灯、灯油等が不足している故、区役所とかけあって調達さ
せる。夜、牧師夫妻が池田市に一泊する故、牧師館に泊り込む。Y夫妻とK君と4人。蝋燭の火を灯しての夕食。石油ストーブで暖をとり、差し入れの洋酒を飲みながら遅くまで語り合いき。

1月23日 朝方大きな余震また起これり。気にせず布団被りて眠る。うとうとしていると、突如犬が柵を破りて外に出る。シベリアンハスキーの大犬で、時が時なだけに慌てて捕まえようとす。しかし、大犬は我が意を得たりとばかり近くを走り回る。捕まえようとすれど、歯をむき出しき。独りでは無理で、二人がかりでかかれど、大犬は人間様の気持ち分からず。小一時間ようやくおとなしくなりて、柵の中に連れ戻しう。震災の影響は人だけにあらずしか。朝食後、六甲駅より市バスにて帰宅す。途中小学校に避難せし知人と出合えり。氏の家は阪急六甲駅より山側にありし故安心せしに、人の幸・不運なるもの分からぬ。帰りてしばし眠る。短き時間なれど熟睡したやう。起きて久しぶりに机に向かいし。この1週間何をせしきか。本も読まず、筆も執らず、仕事もせず。帰りしねぐらありしかど、精神的には浮ついていなきか、目つむりて憶ひははづかしき。今日の朝刊には雨で避難勧告相次ぐ、一部学校きょう再開とあり。3時頃、また下りる。尋ねし人はまだいる。その安否を確かめうるまでは、まだひとりになることまし。障害者のG氏が避難宿泊している家を訪ぬ。彼の無事は分かっていたが、会うのは今日がはじめて。以前よりも元気そう。安心せし。この後数軒回りて、教会で休憩し、帰宅す。

1月24日 力合わせゼロからの出発、が本日の見出し。3面には、風呂を、住宅を、情報をとあり。町は一歩一歩復興の兆しあり。当初交通のアクセスが寸断され、陸の孤島と化した神戸市ではあったが、西宮から三宮までバス運行す。もっとも電車に乗れば15分で済むところを、道路渋滞のためもありて3〜4時間もかかると言ふのだから大変なことに変わりなし。ともあれ着実に活気を取り戻しつつあるのは日進月歩の如し。いまや救援物資は所によりては余り気味となり、廃棄処分となりし握り飯やパンが目につく。3時間並んで2リットルの水しかもらえなかった当初と違ひ、歩く先々で水は供給されし。アラスカの水、屋久島の水、丹波の水等々世界各地の水がこの神戸に集まりき。救援隊も世界から参集し、異常とも思える程に有名となりし。それはシンパシーなりてか。当事者にとりて、兵庫県下だけで死者5千名以上、家屋倒壊5万5千戸、千余カ所の避難所に避難者約30万名、芦屋市に至っては5棟に1棟が全壊といふ事実と直面せり。また神戸の人はテレビで淡路島の被災状況が映れば、他のチャンネルに変えてしまうという、これまた事実。翌日の神戸新聞夕刊によれば、兵庫県警が倒壊家屋の被害を再調査したところ、神戸市灘区で9倍に増えるとあり、千戸から9千2百戸に増加。県内では7万3千3百戸に及ぶと。実際の話、教会のありし灘区大和町で役所マン、警官、自衛官が入りしは被災後4〜5日経ちしでありき。そもそもこの地区に限りて言へど、初動調査はなかりき。人手不足が第一の要因ではあろうが、余りと言へば余りではなかりきか。これもまた、事実なりき。避難せし人達にしろ、そこに居続ければ事後の社会的条件が優遇されると言ふ。生くるとは何か。不眠不休で働きし警察官過労死すとのニュースあり。その働きぶりの時間たるや数字を見し限り尋常でなし。亡くなりしその人は手抜きと言ふことが出来かねし方であろう。震災に一次、二次災害ありければ、人間模様にも一次、二次の姿あり。もっとも死から眺むれば、人みな相同じ。ただ今回の災害を通じて5千余名の方々が亡くなりし、その事実の前にぬかづくべし。この日、三宮に行く。姉妹店のK店の開店準備を手伝うため。8時過ぎ家を出づ。阪急六甲からは市バスにて。渋滞なし。1時間早くも着きし。そこでその近くに住みし友人宅を回る。半壊なりし建物に入り、ともあれ無事なりしを確認す。メッセージをしたためし。この後、被害甚大なりし三宮周辺を歩きて、K店に入りし。久しぶりに本をさわる。いまま
でずっと本をさわり続けてマンネリ化もいいところなりしかど、改めて触れて本からメッセージなかりし。書名から心響かず。単なる活字に過ぎず。帰りは阪急バスにて六甲へ。渋滞に逢い1時間半もかかりし。5分で着きしところを。教会に立ち寄り、そこから妻の運転で東灘区の方に行く。彼の地も被害甚大で心配せし。かくも壊れたりきと関心させる程の惨状ぶり。目的の家を探し探して見つけたれど、人は避難して不在。帰りはまた渋滞に巻き込まれし。青信号が3回点滅せしど、一向に進まず。往き通いしサイレンの音のみかまびしき。車中明日の予定行動を思ふ。もっと西へ、兵庫区長田区へと。それで一段落すべしと。

1月25日 混乱の底 芽ばえた連帯 みんなで弱者守れ、というのが見出し。車はこりごりせしに、自動車で行動す。いま東西の往き来は二輪車が一番であろう。その行動半径たるや自動車の比でなし。路地という路地を駆け巡りし。路道あちこちに中継所となる所あり。そこにて熱いお茶や酒を御馳走になりながら西へと向かふ。三宮に出れば、青信号にて十数台の自転車が車に負けることなく一斉に飛び出す。まるで北京市並みの光景であり。女性の姿はそのほとんどがズボンで、スカートをはきし人稀なり。これが神戸最新のファッションなり。元町駅近くにて、味噌汁食べる。1杯200円なり。この後、長田にてたこ焼き250円、神戸駅近くにてラーメン650円を払う。元町のK書店は開店せり。懐かしき新開地は思っていた程には被害少なし。長田駅近くのマンションに住みしT氏は10階なりき。ふうふう言いて上がれば、ここも避難命令が出ているらしく無人なり。玄関は鍵かからず連絡先の貼り紙あり。中に入り見るに、散乱した部屋でありながら多くの本が専門書が整理されてあり。ここでは本が生きしなり。本の生命を感じたり。やっと本に出合えたり。こんな震災に負けるような本ではなかった。人間の歴史がそこに息づいていた。もう歩き回る必要もなしと、次にやることの目標が見つかった。それがひとつ、この備忘録なり。兵庫、長田の火災地域を見し。知人の家の跡を見出すのも不可なり。されど、彼はどこかで生きているかし。その予感は確かなりしと信ず。夕方、帰宅せしに水道の水流れり。あとはガスのみ。それもまた近々中に通じるであろう。阪神大震災、その爪跡深くとも、十数年後には、そういえばあんなひどいことがあったね、と思い返すことであろう。


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