旧著探訪 (41)

『コルシア書店の仲間たち』   ■須賀敦子 著/文春文庫/1995年■ 

コルシア書店の仲間たち
 背表紙が紺色だったから古書店主が勘違いしたのだろう。講談社学術文庫の棚に、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫、1995)がさされていた。硬派な書名に囲まれて「仲間たち」という文字が楽しげに浮き上がっていた。「須賀敦子」は長いあいだ気になりながらも手にしなかった。とくに本書は書名に「書店」とあって食指が動きがちの私なのだが、いかんせん舞台はイタリア。あまりに縁遠いのだった。
 本書の単行本が出版されたのが1992年。須賀の最初の作品『ミラノ 霧の風景』(白水社)が出たのは、1990年の著者61歳のとき。亡くなったのが1998年であるから作家としての活動期間はわずか10年足らずだ。作品数はそれほど多くないにもかかわらず、没後もさまざまに特集され、「須賀敦子」をテーマにした書籍の出版が断続的にいまも続いている。新しい読者を獲得し続けているということだろう。私も、ほんとに遅ればせながら、ブームの最高潮からすれば四半世紀ちかくも遅れて読者となった。

『コルシア書店の仲間たち』は、著者が30歳を前にして留学したイタリアを舞台にした回想記だ。時代は1950年代末から70年代初頭。コルシア書店という「カトリック左派」と呼ばれるグループが運営する書店の仕事を、31歳から帰国する42歳までの11年間、手伝うようになる(須賀は聖心女子大出身のクリスチャン。18歳の時に受洗)。
 その書店を中心に交流した仲間たちや、書店の運営をボランティアでサポートするブルジョワジーの貴婦人たち、そして夫となる同僚のペッピーノ(結婚6年足らずで死別)、そうした人々と過ごした濃密な日々が描かれる。
「(ミラノの)どの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする」
 そしてこうも書く。「十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった」

 この物語が執筆されたのは著者が63歳のとき。遠い昔の記憶をたずねて、かかわってきた人物のおしゃべりや表情、ふるまいを、エピソードやゴシップを交えながら、掌編の小説仕立てにして物語る。30年という時間の経過によって夾雑物がふるいにかけられて、その一人一人のたたずまいが際だって異化され、今では老い衰えた友人たちや、あるいはすでに亡くなってしまった人たちが、時空を超えてくっきりと立ち現われてくる。そして須賀自身もその時間、その空間にもう一度立ちあって、ていねいに当時の情景を再現していく。
 意外にもキリスト教のことや「左派」のこと、書店の仕事内容はほとんど語られない。というのもコルシア書店は商売としての書店ではなく、書店というかたちを借りた、「あたらしい共同体」を模索する、ゆるやかな運動体として存在した。そしてそれは、「パートタイム」ではなく、「生活をともにする運命共同体」をめざした。まるで大学のサークルのようでもあり、一種のコミューンのような、仲間たちと有機的な理想社会の実現に向けて談論風発する実験場であったようにも見える。
「あれから三十年、東京でこれを書いていると、書店の命運に一喜一憂した当時の空気が、まるで「ごっこ」のなかのとるにたりない出来事のように思える」と書く。屈託のないといえば屈託のない青春の日々だ。しかし当時は「自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描い」て「いちずに前進しようと」していた。
 しかしその「ごっこ」は1970年代に入ってほどなく終焉を迎えることになる。中国の文化革命の余波で学生たちは過激化し、社会全体に不穏なムードが漂い始める。
「政治が友情に先行し」「書店が交流の場より、闘争の場になることをえらび」「思索より行動を」「妥協より厳正を」求めるようになる。
「書店の仲間みんなが、晩い青春の日々に没頭した愉しい「ごっこ」の終わり」の始まりであった。1971年8月末、須賀は帰国する。

 本書の巻末にこうしるしている。
「人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないとうことを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた」と。
 これは著者が60歳を過ぎてからの文章だ。帰国当座はミラノ時代を再現しようとしたのだろうか、再び「共同体」を求めたように見える。カトリックの慈善活動「エマウス運動」に参加し、「熱に浮かされたような、狂的といっていほど」(湯川豊『須賀敦子を読む』新潮文庫、2009)に熱心な活動家であったようだ。46歳で身を引く。その後、大学でイタリア文学を講じるようになる。
「自分は文学しかないというのは分かっていたのに、それから逃げていた、(略)共同体とか、社会活動とか、ほかのことをやってもだめなのに、長いことそれをわかろうとしなかったの」(大竹昭子「ロングインタビュー」『須賀敦子の旅路』所収、文春文庫、2018)と述べている。
『ユルスナールの靴』(河出文庫、1998)という作品の冒頭にはこう書かれている。
「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」
 そうして後年、30年という射程の長い視座から「書くことで生き直す」という自前の「靴」(スタイル)を用意した。
「不思議なことに書くと思いだすんです。いくらでも出てくるので自分でもびっくりしたの。(略)ひたすら書いているうちにそのつもりになって、結論は書いた現実の中から出てくるの」(前出「ロングインタビュー」)

 さて、わたし自身、60歳を超えて、須賀作品に出会えたのは、遅ればせではあったけれど、結果的にはよかったように思えた。著者と共有できるような経験は残念ながらまったくないけれど、30年という時間感覚は実感できるし、30年という経過した歳月の向こうに見える日々が、振り返るべき対象としてなにがしかの意味を持っていることも今なら理解できる。幸いにも須賀作品の読み手として“旬の年回り”であったのかもしれない。イタリアのことは変わらずに不案内であるけれど、ここんところ須賀作品にすっかりとりつかれてしまっている。
2022.10.15(か)
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