旧著探訪 (35)

 『どの宗教が役に立つか』        ■ひろ さちや著/新潮選書/1990年■ 
 民法において「〇〇と推定する」という表現と、「〇〇とみなす」という表現は、厳格に区別されているらしい。日経新聞のコラム「春秋」(2019.7.29)で知った。
「みなす」は有無を言わせずそのように取り扱うということ。たとえば「未成年者が婚姻したときは、これによって成年に達したものとみなす」(民753)。たとえばその「みなし成人」が不祥事を働いた場合、親御さんが「結婚したからといっても、まだまだ子どもですから……」と抗弁しても、法律上は成年として頑として取り扱われる。いっぽう「推定」のほうは事実でないことが証明されればその推定された事実関係を覆すことができる。そうした違いがあるらしい。
 コラムは「嫡出推定」を巡って法制審議会で議論が始まるという記事であった。いちばんの問題となっているのが、「離婚後300日以内に生まれた子」は前夫の子どもと推定する(民772)との規定ゆえに、出生届では前夫を父としなければならず、前夫の戸籍にはいることが手続き上求められる。そのため出生届を躊躇する母親が多く、「無戸籍児」の要因となっている。見直し案は300日以内に生まれた子は、その時点で再婚していれば現夫の子とみなし、再婚していなければ前夫の子とみなす、というものであった。
 さて、ひろさちや『どの宗教が役に立つか』に、この「みなす」と「推定」を使って興味深い日本人論が展開されていたので紹介したい。
 取り上げられているのは「大岡裁き」である。一人の子どもをめぐって二人の女が「この子はわが子である」と言いつのって譲らない。そこで江戸南町奉行の大岡越前守が女二人に命じる。子どもを真ん中にして「子どもの手を両方から引き合え。勝ったほうに子どもを渡そう」という。二人が両方から引っ張り合うと子どもは「痛い痛い」と泣く。居たたまれず一人の女が手を離すと、もう一人が「これで私の子ですね」と勝ち誇って言った。すると、越前守は「いやあ、お前じゃない。ほんとうの親なら泣く子の不憫さに思わず手を放してしまうだろう」と。一般には名裁きとして伝えられるエピソードである。
 ところが、これに対して著者は「ペテン」だと断じる。実の母親であれば、わが子が泣こうがわめこうが、「どんなことがあっても他人にやりたくはありません。たとえその子が片腕になっても」。こうした言い分もあってしかるべきだろう、と。つまりはなにが本当であるかなんてそう簡単には決められない。人間にはわからないものがある。一から百までくまなく見通せるなんてことはありえない。そうした領域は神に委ねるしかない。人間が裁こうなんて土台無理な話なのだ、と。文字どおりGOD KNOWS(神のみぞ知る)の世界観を提示する。
 その、神に委ねた裁きの一例として古代イスラエルのソロモン王の逸話をあげる。旧約聖書の「列王記」にある話らしい。
 大岡裁きと同じような状況にある二人の女と一人の赤ん坊。二人の女のどちらもが赤ん坊をわが子であると言って譲らない。そこでソロモンは「剣を持ってこい!」と命じて、赤ん坊を二つに切り裂いて女二人に半分ずつ分け与えようとした。一人の女が言う。「この子をあの女に与えてください。どうかこの子を殺さないでください」と。もう一人は「裂いて分けてください」と言う。そこでソロモンが判を下す。「この子を生かしたまま先の女に与えよ」
 よく似た話ではある。が、著者はこの二つの事例は根本的にちがっていると述べる。
「大岡裁き」では、いずれが真の母親であるか、その真相を知ろうとしている。綱引きというトリックを使ってまでして。しかも二人の女は真相を知っており、その真相は努力して突き詰めればわれわれにわかるはずだ。そうした前提に立っているという。
 いっぽう「ソロモンの裁き」は、真相は神のみが知り、われわれ人間にはわからないという前提だ。二人の女にしても偽っているのではなく心底わが子であると思いこんでしまっているとも考えられる(そうした思い込みというものはしばしば見られるものだ)。そこでソロモンは真相とは無関係に政治的に対処する。後者の女は「生きた赤ん坊はいらない」といい、前者は「死んだ赤ん坊はいらない」といっている。だからソロモンは前者に赤ん坊をやることにした。これが正しいのかどうかはわからない。ソロモンは、法律用語でいうところの「母親とみなした」わけである。いっぽう大岡越前守は「母親と推定した」。
 この越前守に代表されるような、真相を究めようとする生真面目さが日本人にはあり、それゆえに日本人を宗教音痴・無宗教にしてしまっていると著者はいう。「わからないのであればあとは神さまにお任せする」「そうすれば、神さまの出番がある」「ところが日本人は、行き詰まってしまっても、なおも神さまに出番を与えようとはせず」「なんとか人間の力でやってのけようとする」(154頁)。「人事を尽くして天命を待つ」というが、決して日本人は天命を待つことなんてしない。「人事を尽くして、その上に人事を尽くす」。努力至上主義に徹して、神さまの出番はないのである。著者はこれを人間主義とよんでいる。そしてヒューマニズム全盛の時代を憂うのである。
 たしかに、人間主義ばかりでは身がもたない。がんばれ!ファイト!加油!ばっかりでは。しんどくなったら神さまにお願いしよう。 「レット・イット・ビーすべておまかせ秋の雲」 。亡父のおそまつな句。身びいきだけれど、これはいい。人事はほどほどに。インシャーアッラー。2019.8.15(か)

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