旧著探訪 (29)

  イスラーム哲学の原像             ■井筒俊彦著・岩波新書・1980年■ 
イスラーム哲学の原像
 そう遠くない将来、地球上の3人に1人がイスラーム教徒といわれるほどに、「イスラーム」がこれからの世界を方向づけんばかりの勢いにあるこんにち、イスラーム関連の書籍が百花繚乱である。とくに中東の戦乱をテーマにしたジャーナリスティックなものがなにかと話題になるが、いっぽうで宗教としてのイスラーム、文化としてのイスラームを取り上げた内容のものもひろく出版されるようになり、イスラームへの間口は広まってきた。
 これまでイスラームへの入門として評価の定まったテッパンの書は『イスラーム文化』(井筒俊彦著・岩波文庫・1991年)であっただろう。私も本書を皮切りにイスラーム本を読むようになった。この本はオイル・ショック、イラン革命を経て、にわかに中東への意識が国民的に高揚した、第1次イスラームブームといってもいいかもしれない時期(1981年)に行なわれた講演録(3回シリーズ)が元になっている。主催は経団連関係の財団法人。東洋哲学の巨匠としての井筒博士の著作群は私には難解で、数ページも読み進められないが、一般向けに語る講演録はおおむねフレンドリーである。
 多くの読書人にとって、「イスラーム」といえば井筒俊彦であったし、「井筒イスラーム学」は今も日本人のイスラーム認識に大きな影響を与えているとして、この点を批判的に指摘しているのは、中東学者の池内恵氏である(「井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解」『井筒俊彦』所収・河出書房新社・2014年)。
「井筒がイスラームの最重要の性質が律法と規範の側面であることを、もちろん知らないはずがない」、にもかかわらず「内面への道」「神秘主義に公然とシンパシーを表明」する、井筒のスーフィズム(神秘主義)的イスラームが、日本人のイスラーム認識を歪なものにしていると指摘する。井筒批判ではなく、そうした井筒の神秘主義に立脚した思想史的アプローチを相対化する視点が知識人層の側に欠落していたことを問題にしている。
 たしかにそうした事情はあったかもしれないが、近年のイスラームへのアプローチには、神秘主義への傾斜はほとんど見られないと思う。テレビや新聞などのイスラーム関連の情報がひと昔前に比べて、圧倒的に茶の間にあふれかえっている。自然と「相対化」されてしまったといえるかもしれない。一般向け出版物を見渡しても、マジョリティであるスンナ派イスラームの解説が中心になっている。シャリーア(イスラム法)に基づくムスリムの行動規範を読み解く内容だ。
 逆にそうしたイスラーム本ばかり目にしていると、かえって密教的なイスラームが気になってくる。そこでずばり神秘主義を扱った『イスラーム哲学の原像』を取り上げてみようと思った次第。これも、岩波市民講座での講演(1979年)と、ハワイ大学での公開講演、ヘブライ大学での特別講演が元になっており、哲学的な内容ではあるが語り口調で書かれており比較的読みやすい。12世紀から13世紀に生きた、神秘主義の代表的思想家のひとり、イブン・アラビーをおもに取り上げている。
 ある種の修行を通して、私たちがふだん認識している分節化されたこの現象界・多者界から、「千々に離れ散る心の動きを瞑想的に一本に収斂し、一点に集中していって」(タウヒード)、どんどん内面への道を極めていく。ついには自我の消滅(ファナー)、無の境地を得る。その先に現われるまったくの無分節・未発の「純粋存在」「絶対存在」において、あらゆる現象界の存在者をこの一者の自己限定として確立させる(存在一性論)。その過程における存在と意識のあり方を叙述・分析していく内容だ。
 逆にいえば、こうした究極の絶対一者(根源的存在リアリティー)が自己展開する過程でさまざまに世界が分節されて、私たちが認識するこの現象界・経験的世界が創出されていると考える。ああ、「絶対一者」とはアッラーのことね、と単純に思ったのだが、本書によるとアッラーですら、絶対一者からの「下段階での顕現にすぎない」とある。スンナ派からすれば異端とも捉えられかねないと思うのだが、ヤージュニャヴァルキヤの「梵我一如」や、龍樹のいう、空じて空じて空じたその先に現出する「色即是空・空即是色」の境地であったり、老子の「道(タオ)」といった存在であったり……、東洋哲学との親和性を覚える。主体と客体の同化だ。
 ところで、サルトルは公園のベンチに座ってマロニエの木の根っこを眺めているうちに、「根」という言葉が消え、意味が溶け、姿かたちがどろどろとした塊となり、さらには、ベンチも柵も芝生も、それらの境界が溶け始め、化け物のような無秩序な「塊」と化した世界に吐き気を覚える(『嘔吐』)。分節された現象界から未分節の世界へと遡行する過程で吐き気を覚えたのが西洋哲学であれば、東洋哲学はひたすら外部(分節)世界を空じていくことで未分節の絶対一者との合一を求めてめざす。その極地の状態(ファナー)をイスラーム哲学では「酩酊(sukr)」というらしい。もちろん心地よい酔いであって、吐き気はない。
 さて蛇足であるが、アラビア語においては個物を重視する傾向があるという。『アラブ的思考様式』(牧野信也・講談社学術文庫・1979年)によると、たとえばラクダを指す単語は数百にものぼる。日本語の出世魚の比ではない。「雄ラクダ(jamalun)」「雌ラクダ(naaqatun)」「純血ラクダ(qadbatun)」「背高ラクダ(fatkhaa'un)」「背低ラクダ(jazwaratun)」「多乳のラクダ(khirkhirun)」「大食のラクダ(mihraasun)」などなど、それぞれに個別の名称が与えられている。ある種のラクダを「ラクダ」という語に何らかの形容詞や形容句で修飾したり、合成語を使ったりして表現するのではなく、まったく独立した名称(名詞)を対応させていく。その数、半端じゃない。まさに名詞の、怒濤の氾濫である。これはラクダに限ったことではなく、蛇だと200以上、ライオンを表わすのに500以上、鷹を表わすものも数百あるという。片倉もとこさんの『砂漠へ、のびやかに』(筑摩書房・1987年)にも「砂漠という言葉にあたるアラビア語は、九十以上ある」とあった。サハラは、「荒れ果てた地」というニュアンスをもつ砂漠のことらしい。これほどに個別に独立した単語で世界を細かく、やり過ぎでしょ!と思えるほど律儀に分節化を目指す人たちでありながら、絶対無分節の一者へとタウヒード(融一)の道を希求する。いやあ、なんとも不思議な気分にさせられるのだ。(か)2016.11.26
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