近著探訪(6)

 星新一 一〇〇一話をつくった人 
■最相葉月 新潮社・2007年■





ショート・ショートの専門誌
『ショートショートランド』
創刊号((1981年)
星新一ショートショート・コンテスト'81の選考経過・選評が掲載されている
 ここ20年ほど、ほとんど小説(文学)を読まなくなってしまった。読んでも年に数冊。
 学生時代は、1日1冊を目標に、漱石・鴎外から始まって、荷風に谷崎を経て、白樺派の面々、近代文学周辺の安部、三島や、戦後派から第三の新人までひたすら読んだものです。文学青年であったと自称しても許されるほどには読んだと思う。しかし、何一つ覚えていない。記憶力ははっきりいって悪いほうであるが、それにしてもきれいさっぱり忘れてしまっている。恐るべきことである。「文学」とやらに費消したあの膨大な時間を、青春を返せ!と叫びたいほどだ。
 それよりもちゃんと授業に出て「学問」とやらをやっておくべきだった、と思う。そう過去を振り返るようになってからは小説の類はほとんど読むことはなくなった。
 たまに知人から「あの小説はおもしろいから一読すべし」と助言をもらい、手にすることがある。読んでいる最中はたしかに楽しめるのだが、読み終わって本を閉じた瞬間、結局何がおもしろかったのか、うまく整理できず、ただただ時間を無駄にしてしまったような後味の悪さが残る。そして数日後には読んだことさえも忘れてしまっている。とほほ。
「おもしろかった?」
「うーん、なんちゅうか……」
「たとえば気に入った表現とか描写とか、そんなの記憶にない?」「ひょっとして筋ばっかり追っかけていない?」「あーた、“近代知”に侵されてるのよ」と小説読みの知人から馬鹿にされる。(ストーリーを追っかけちゃあかんのん?)
 ともあれ、私は文学というものがまったくわからない人間である、ということを心得た大人になった。できるだけ文学と称されるものから離れたところに身を置いておきたい。作り物の個別的人生にはほとんど興味がもてない自分というのも、中年になってようやくわかった。エラソーに言えば、「あたしゃ、そんなのにかまってられるほど暇じゃないの!」ということであります。
 そんな私ではありますが、「星新一」という名前を目にして、そういえばショート・ショートという世界が話題になったなあと懐古的になって手にしてしまったのが、この『星新一 一〇〇一話をつくった人』。もちろん本書は小説ではなく、『絶対音感』で一世を風靡した書き手による星新一の伝記。膨大な取材を経て書き上げられた緻密なノンフィクションです。
 文壇の長老からは「あんなものは文学ではない」「人物描写が希薄である」などと批判され、すでに大御所でありながら、文学界では、ある意味、最後まで不遇であった「星新一」が描かれている。そのなかで、
「いつのころだれが言い出したのか知らないが、小説とは人間を描くものだそうである。奇をてらうのが好きな私も、この点は同感である。(略)ここにひとつの疑問がある。人間と人物とは必ずしも同義語ではない。人物をリアルに描写し人間性を探究するのもひとつの方法だろうが、唯一ではないはずだ。ストーリーそのものによって人間性のある面を浮き彫りにできるはずだ。こう考えたのが私の出発点である」という星新一のコメントが紹介されていた。
 私はこの下りを読んで、この方法であれば文学音痴の私だってアプローチできるのではないかと元気づけられた。人物の内面描写やら微に入り細を穿つ登場人物の個別的精神性から解放された「文学」、そして「人物を不特定の個人とし、その描写よりも物語の構成に重点が置かれている」世界、であれば、私にだって楽しめるのではないか。星の言う「ストーリーそのもの」から構造的に人間性を浮かび上がらせ摘出するという手法に、大げさに言えば「文学」ではなく「科学」を感じたのであります。
 具体的個人ではなく、抽象化された個人。代替可能な登場人物。社会学でいうところのホモ・ソシオロジクスといってもいい。集団やら組織やら制度といった社会との関係性から「社会化された人間」を捉えなおす。そして物語性をもってその状況を鮮やかに描いてみせるのが星新一の文学だとすれば……、私はいま「星新一ショートショートセレクション」(理論社)のシリーズを寝る前に読むのが日課になっている。
2007年8月25日(か)
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