近著探訪(50)

 もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査 ■カメル・ダーウド 著/鵜戸 聡 訳・水声社・2019年■
もうひとつの異邦人


眼には眼を(DVD)
DVD「眼には眼を」

「この物語は書き直さなきゃならないんだ。同じことばで、でも右から左にね」
「この物語」というのは、カミュ『異邦人』のこと。その書き直された本が、アルジェリアの作家カメル・ダーウドによる『もうひとつの「異邦人」ムルソー再捜査』(水声社・2019年)という一冊だ。『異邦人』で主人公ムルソーに殺されたアラブ人(名前はなくただアラブ人とだけ表記されて登場する。本書で「ムーサー」という名であったことが明かされている)の、その弟のモノローグで紡がれた物語である。
「(兄ムーサーは)哀れな文盲、まるで銃弾に撃たれて塵に帰るためだけに神がお創りになったみたいだった。自分の名前をもらう暇さえなかった名無しだよ」「彼の話をするのは僕しかいないんだ」
『異邦人』をアラブ人側から反転させて捉え直した作品が、この『もうひとつの「異邦人」』というわけだ。『異邦人』の有名な書き出し「きょう、ママンが死んだ」(窪田啓作訳・新潮文庫・1954年)は、『もうひとつの「異邦人」』では「今日、マーはまだ生きている」となる。「右から左にね」はフランス語ではなくアラビア語で書き直さなきゃならないということだ。ただこれは使用言語を文字通りに意味するのではないようで、アラブ人の視点からということだ(著者はフランス語で書いている)。
 さて、じつは正直に書くと、この『もうひとつの「異邦人」』を知るまで、『異邦人』がフランス領アルジェリアを舞台にしていたこと、主人公のムルソーが宗主国側のフランス人であったこと、そして殺害された人物がその土地のアラブ人であったこと、さらにはムルソー自身はフランス人といいながら(カミュ自身がそうであったように)ピエ・ノワール(黒い足)と呼ばれる移民者(植民者)であったこと、そうした登場人物の属性やらその歴史性についてまったくの無頓着に、いわば無国籍ふうにこの小説を読んでいた。
 ムルソーは裁判を経て斬首刑を宣告されるのだが、その死刑判決の根拠になったのは、母の死を前にして涙を流しもせず冷静であったこと、母の享年を正確に言えなかったこと、葬儀の翌日、海水浴に行ったり、知り合いの女性と喜劇映画を観て、その後情交を持ち、喪に服しているようにはとても見えなかったこと……、こうした一連のふるまいが、母を失った人間としてはあるまじき逸脱した行為と見なされ、陪審官の心証をはげしく毀損してしまったのだった。アラブ人を殺害したことが判決の主因ではなかったことは、舞台が植民地であったことを前提にせずにはほんらい理解できないはずであった。
 しかし、弁解がましいけれど「太陽のせいで」殺人をおかす不条理性だけが象徴的に汎通性をもって語られていたのだから無理もないのだ。かつて、文芸評論家の中村光夫と、作家の広津和郎のあいだで繰り広げられた「『異邦人』論争」というものがあったようである。邦訳(新潮社)されたその年、1951年のことだ。
 広津はこの作品が気に入らなかったようで「心理実験室での遊戯」ではないかと批判的であった。つまるところ生活感の希薄な、嘘っぽさにいらだったようである。おそらく「私小説」ではない、その虚構の作風が気にくわなかったのだろう。いっぽう中村はそうした批判に対し、カミュのもくろみは「既成の人間関係のワクに対する反逆」であり、知的に構成された「実験」によって、現代の都市社会が普遍的にもつ不条理性をあぶり出したとして評価したのだった。
 やはり、この論争においても、両者は観念上の「実験」的現代文学作品としての前提に立っており、具体的な土地や、植民地に生きる人々、その歴史的背景への目配りはない。無国籍なのである。舞台が植民地であるゆえの具体的な状況やら、支配者・被支配者の関係性を不問にして、純粋に「文学という閉塞した領域のなかだけで<文学>をどう考えるか?」の一点に集約されている。
 ところがここに花田清輝がわってはいる。新日本文学会の大会でのことであったらしい。いわく「射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか」と。まさに『もうひとつの「異邦人」』を先取りするかのような、一撃の言明であった。

 さて、もうひとつ同じような舞台設定の物語をしるす。フランス領レバノンに暮らすフランス人医者と、その地で印刷業を営むアラブ人のあいだで繰り広げられた復讐劇「眼には眼を」という映画作品である。
 安部公房『砂漠の思想』(講談社・1970年)に収められた、書名と同じ「砂漠の思想」と題された評論でその映画「眼には眼を」が取り上げられている。1957年、フランスのアンドレ・カイヤット監督の作品。名作の誉れ高い作品だそうだが、初めて知った。過日ようやくこの廃盤となっていたDVDを手に入れた。
 すこし長いけれどあらすじを書く。
 レバノンのある町の病院に勤務するフランス人外科医ヴァルテル。多忙な一日を終え、その夜自宅で寛いでいると、アラブ人のボルタクが急病の妻を連れてくる。しかし、車で20分ほど先の病院へ行って診察してもらうようにと伝え、ヴァルテルはボルタク夫妻を追い返してしまう。その後、病院へ向かう途中ボルタクの車が故障してしまい、ボルタクは重篤な妻を抱えて何キロも病院まで歩かねばならなかった。さらには病院での研修医の誤診も重なって、その妻は命を落としてしまったのだった。そこから、ボルタクのヴァルテルへの復讐が始まる。ストーカー行為を繰り返し、夜間には無言電話をかけるなど、ボルタクの執拗ないやがらせにヴァルテルは苦しむことになる。あげくボルタクが仕掛けた巧妙な罠にはめられてヴァルテルは砂漠へおびき出される。そこから、ヴァルテルはボルタクとともに砂漠をさまよいながらダマスカスを目指すことになるのだった。ぎらぎら照りつける灼熱の太陽のもと激しい乾きに苦しみながら二人の奇妙な砂漠行がえんえんと続く。「ダマスカスはあの山を越えたところです」「あの谷の向こうです」というボルタクの嘘に何度も何度もヴァルテルは翻弄され続ける。行けども行けども、ダマスカスに着かない。逆に砂漠の深みへとますます引きづり込まれてゆくのである。ヴァルテルの精根尽き果てて意識朦朧となった様を見てボルタクはほくそ笑むのだった。しかし、ボルタクのほうも力尽きつつあり、後事を託すそぶりで、彼はヴァルテルに「この方向に進んで、あの峰を越えればダマスカスです」「今度こそ本当です」と指をさすのだった。ヴァルテルはその方向へよろめきながらも最後の力を振りしぼって歩き出す……。
 カメラがせり上がっていって、鳥瞰的なポジションからの映像に変わる。そこには広大な荒れ地をひとりふらふらと歩を進めるヴァルテルが映し出される。ヴァルテルが進んでいく方向にあるのは、どこまでも続く荒れ果てた土漠と、そこに折り重なるように波打つ岩山の峰峰だった。アラブ人ボルタクの、死を賭した復讐劇の最終幕がおろされようとしている……。ボルタクの狂ったような哄笑が響きわたるのだった。
 安部公房はこの「砂漠の思想」で、医者ヴァルテルがボルタクの診察の頼みを断わる映画前半部分から、後半に繰り広げられる苛酷な砂漠行へと持ち込むにはその必然性に欠けるところがあるのではないかと指摘し、「見せかけは復讐劇であっても、実は一種の運命劇、カミュ流の不条理におちこむ結果になってしまうのではないかと懸念した」と書く。しかし作品の原作者ヴァエ・カッチャがアルメニア人であることを踏まえて、すぐに言い直す。それは、植民地の民衆心理についてレーニンが引用したロシア農奴の「旦那の怒りも、旦那のお慈悲も、どの悲しみより先に、とっとと失せてくれ」に通底する「徹底した不寛容さ」ではなかったかと。被支配者の根深い憎悪にこそ思いを至す必要をいうのだった。あるいは、「かつて白人は、砂漠に来て涙をながし、その悲しみを訴えれば許されるものだと思いこんでいた。主人が、絶望して涙まで流すのだから、召使いはそれをみて同情しないはずがない。ところが召使いは嘲笑って、その横っ面をひっぱたいてしまったのだ」とも。ことは「不条理」に落とし込んでしまってはいけないのである。
 そして問うのだった。私たち日本人の立場は、「いったいヴァルテルだろうか、それともボルタクなのだろうか?」と。
「眼には眼を(歯には歯を)」は、紀元前18世紀のバビロニアの王が制定した「ハンムラビ法典」に由来する規定であるが、その意味するところは「同害報復」である。つまり過剰な刑罰や報復を禁ずるものであった。眼をつぶされたからといって命まで奪っていいというわけではないのだ。今日の罪刑法定主義の起源とされる。
 さて、この映画の場合、「同害報復」のバランスはとれているのだろうか。妻の死と、その遠因となった医者の無関心に対して、その医者の死を、自身の命を擲ってでも求めようとする男の復讐心は、バランスするのか。つまりは、その復讐は許されるものなのか、ということだ。映画の作品に切り取られた時間では過剰かもしれない。それはまさに「不条理」であったかもしれない。しかし、植民地に生きてきた被支配者側の歴史的文脈から捉え直した視点ではどうだろうか。
 安部は「私たちは、旧満洲の荒野や、朝鮮の岩山で、ヴァルテルのような運命にあった日本人をえがいた映画を一本でももっているのだろうか」「日本人の意識水準はボルタクどころか、ヴァルテルであったことさえ、まだはっきりと気づいていないのかも知れないのである」としるす。
「『異邦人』論争」がなされたのは、1951年である。戦後まもない時期であったことに思いをいたせば、たしかに恥ずかしいほどに無自覚で、無邪気な文学論争であった。花田清輝に指摘されるまで誰一人としてなんの気づきもなかったのだ。
 1969年には五木寛之がエッセイで次のように記している。
「『異邦人』とは、単に観念上の問題ではなく、アルジェリアに生まれ育ったフランス人植民者が、国籍上の祖国に対する違和感と、生まれ育った風土の土地から拒絶されているという、宙ぶらりんの人間、引揚者としてのカミュの立場そのものではないか。私たちはいわば圧制者の一族として、朝鮮半島にあったが、その中にも、日本本土における階級対立のステレオ・タイプはそのまま存在した。貧しいゆえに外地へはみ出し、その土地で今度は他民族に対して支配階級の立場に立つという、異様な二重構造がそこにはあった」(『深夜の自画像』文春文庫・1975年)
 五木は引揚者(植民者)の経験から、『異邦人』の舞台が植民地であったことを当然のごとくに読み込んでおり、さらには自身がボルタクであり、ヴァルテルでもあったことを自覚的に見事にあぶり出している。興味深いことに安部公房も引揚者(植民者)であったし、花田清輝も戦前満州に渡っている。「無国籍」な越境者だからこそ、無国籍な虚構性に淫することはないのだろう。
2020.1.13(か)
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