近著探訪(35)

 イスラーム金融 
贈与と交換、その共存のシステムを解く  ■櫻井秀子 著・新評論・2008年■
 世界人口の4分の1を占めるムスリム(イスラム教徒)。彼らが暮らす地域は、中東はもちろん、東は東南アジア(インドネシアやマレーシアなど)から、西はアフリカまで広がる。そうした巨大なイスラム圏をターゲットにさまざまなビジネスが画策され、ここんところ何かとかまびすしい。伝えられるところ300兆円を超える市場規模になるのだそうだ。この地域に暮らす人たちの平均年齢も20歳代と、年寄り社会の日本と違って、活力がみなぎっている。これからの飛躍が大いに期待されているマーケットである。国内市場が飽和してしまった、のびしろのない日本から、イスラーム地域に目を向けた商品開発が話題になっている。
「ハラール」ということばを新聞や雑誌で目にしない日がないほどである。字義的には「許可」ということらしい。その反対は「ハラーム」で「禁止」の意。ムスリムには、クルアーンやハディース(ムハンマドの言行録)から導かれた、口にしてはいけない食物リストがある。よく知られるのは、アルコールや豚肉。これらを飲食することは禁じられている。また豚以外の肉であってもイスラム法(シャリーヤ)に則って処理された食肉でないとダメである。というわけで、日本からイスラーム圏へ輸出する食材はすべてハラール対応がなされていなければならない。豚由来の油が入った化粧品や、保存剤として添加されるアルコール類などもハラーム(禁止)であるから、かなり厳格でデリケートな対応が求められる。そこで、便宜を図って、この食品はハラールですよ、とお墨付きを与える「ハラール認証機関」なるものが世界に80カ所ほどあるらしい。日本国内にも数カ所あるとか。なるほど、第三者機関が認定してくれるのであれば安心して商売ができる。
 しかし、イスラームの根本からすると、この認定機関の存在はかなり問題であるのだ。『一神教と国家』(集英社新書)の中で中田考さんが次のように指摘している。
〈『クルアーン』と『ハディース』に照らして一人ひとりのムスリムが自分で決めるべきことで、権威を装ってハラール、ハラームを決めて、それを人びとに強制することは神の大権を冒すたいへんな冒涜なのです〉
 目から鱗が落ちた下りである。立法者は神以外あってはいけないのが、イスラームであった。
 さて、「ハラール」と同様に、ビジネスの文脈でこれまたしばしば話題になるのが「イスラーム金融」である。イスラームでは「利子」が禁じられている。おカネがおカネを産むことを徹底的に忌避する。だから財の交換には相対スポットの即時性が求められる。時間軸を極力介在させないよう工夫がなされている。しかしキャッシュ・オン・デリバリーばかりではビジネスは進んでいかない。たとえば銀行が企業に融資するケースを考えてみると、イスラームでは「融資」を「出資」に置き換え、金利は収益の配当というかたちで還元されていくシステムである。出資であるから元金返済が不履行になっても保証債務はない(原理的にはそのようである)。
 実際は、西側資本主義的システムとの整合性をもたせるための、さまざまなイスラーム金融商品が開発されている。本書『イスラーム金融』には、ビジネスマンに向けた、シャリーヤ・コンプライアンスについての解説がくわしく述べられている。しかし、ここではそうしたテクニカルな側面から離れて、その基層に流れるイスラームの構造そのものに着目した部分を取り上げたい。具体的には、副題にある「贈与と交換」、そして「その共存のシステム」という視点である。
 資本主義諸国における経済はいうまでもなく「交換」一辺倒である。「贈与」という一方通行的なモノやサービスの流れはほとんどない。財を得ようとすれば、別のかたちの財を提供しなければならない。タダはない。タダほど怖いものはないというのが私たちの共通認識である。モノの流れにはその反対給付が必ずついて回る。モノだけでない。人間のあらゆるふるまいまでもが、市場によって値付けされ、商品化される。個人の身体や精神は、分断され細分化されて一片の交換可能なモノになってしまっている。
「とどまるところを知らない交換一元化」のこうした流れは、〈固定的身分制の解体を可能にし、過度の自己犠牲や他者依存が解消の方向に向かった〉というプラス面もあった。目的合理性が広く共有され、自立精神が涵養され、因習や固陋な料簡からの解放になったとはいえる。
 平たく言えば、いい意味でも悪い意味でも、地獄の沙汰もカネ次第というわけである。便利ではあるが、そればっか、というのもなあ、という世界だ。
 すべてが市場を通して値踏みされる社会から浸出してくる殺伐さや非情さに、個人の存在は一消費者・一労働者としてのみ捉えられ、全体性は毀損され、疎外される。個々人のかかえるストレスの元凶である。すべての価値尺度がおカネだけになってしまった。
 そうした視点からイスラームを見つめると、交換一辺倒でない「贈与」を経済システムの一角にしっかりと維持している社会の懐深さに「知恵」を感じるのである。
 イスラームから導かれた「贈与」という考えは、現実社会においては「喜捨(ザカート)」という、ムスリムの大切な勤めの一つとして位置づけられている。そして、喜捨が、ウンマ(イスラーム信仰共同体)の絆を縦横無尽につないできた。社会のセイフティーネットとしても機能してきたのである。なお、喜捨は、神に対してのものであり、人と人の直接的な関係に介在するものではない。つまり、施す者・施される者といった主従関係をうまない。施されるからといって卑下する必要もない。神の存在があってこその互酬関係や信頼関係が築かれるのだ。(このあたりの事情は、『乞食とイスラーム』(保坂修司著・筑摩書房)にくわしい)
〈イスラームでは市場に神は不在ではなく、神は交換経済における公平さに目を光らせ、交換当事者の他にも利益が配分されるように導いている〉
「神の見えざる手」ならぬ「神の見えざる導き」によってイスラーム経済における冨の配分が企図されているのだ。
 ところで、交換経済と喜捨経済のこれら二つがイスラーム経済にわかれて存在しているわけではない。じつはこうした喜捨は交換につながっている。神から「絶対贈与」(現世における存在)をうけた人間は、喜捨をを重ねることで楽園(来世における永遠の生)へのチケットを得るのである。このあたりがイスラーム理解のカギとなるタウヒード的な世界観(唯一神の絶対的存在から究極的に「一」に収斂する)を示していて興味深い。経済が下部構造として「上部」を決定していくのではなく、経済も宗教も、すべてが聖俗一元化されたなかで、〈倫理と不可分〉の経済活動が実現する。しかもそれはバーチャルな金融経済などではなく、地に足がついた実物経済である。おカネの量を増やすことでしか「経済」が動かなくなってしまった私たちの末期的な資本主義とは一線を画す。なんだかうらやましくも見えるイスラームなのだ。 2014.11.9(か)
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