近著探訪(26)

 新しい左翼入門 
相克の運動史は超えられるか  ■松尾 匡著・講談社現代新書・2012年■
 1960年代・70年代の学生運動をくぐってきた世代にはどこかしら反発を感じてしまう、「遅れてきた青年」の私である。100%ノンポリであります。
「左翼」ときくと、ああ、あのうるさい連中ね(失礼!)なんて、今なら60歳前後から上のみなさんをネガティブに想起してしまうのである。
 1970年代後半に私は学生時代を送ったのだが、その頃でもウチの大学では中核派が幅をきかせていた。成田闘争で、局所的ではあるが、世相が騒然としていた時代である。大学正門そばの巨大な立て看板に「武装闘争」だの「粉砕」だのといった激しい文言が、独特の迫力ある書体で踊っていた。ドイツ語の授業などは、ほとんどかれらの乱入で中断し、休講になってしまうのはうれしかったが、しかしおかげで私は「アー、ベー、ツェー」しか言えずに終わってしまっている(そのせいか!)。
 1980年、社会人となって、とある東京の会社に就職。なんとそこには、先輩社員はもちろん、課長から事業部長級の管理職までが学生運動の元活動家であった。それも委員長や書記長クラスの、運動の中枢を担ってきたみなさんがうようよいた。私の直属の、長身の課長は、某大学の突撃隊長だった。かれらのたまり場のような会社だったのだ。実際、私の入社数年前には機動隊が出動するほどの賃上げ闘争をやらかしている(入社してから知った。今だったら事前にネットで情報収集しているもんだけど)。ベースアップの時期となれば、スクラムを組んで社内をデモする。当時社員200人足らずの規模であるのにね。まったくもって学生運動のノリである。かれらのノスタルジーにつきあわされたように思えなくもない。職場集会ではボーナスをコンマ何カ月か上乗せさせるための話し合いが日々もたれる。たしか初任給が128000円。新入社員なのに、一時賞与が6カ月くらいでる。なんせ、時代はバブルの絶頂期である。先輩から意見を求められて「ぺーぺーの私らが70万円ももらえたら、もうじゅうぶんですわ」といったら、えらい顰蹙を買った。80%の国民が自分たちを「中流」と自己規定していた、ある意味、人類史上初の「ユートピア国家」を実現してしまっていた、バブリー・ニッポンである。人生、どうとでもなると高をくくれた、そういう時代であったし、気楽な独り身でもあった。コンマ何カ月に連帯する美学(道徳)が「遅れてきた独身青年」にはなかったのだ。(元同僚の名誉のために付記すると、今は社員2200名を超える、押しも押されもせぬ立派な上場企業になっておられます。株をもっときゃよかった)
 さて「左翼」である。タイトルを見て、上述した思い出が走馬燈のごとく駆けめぐった。しかし、見事にあの頃の「新左翼」にはふれられていない。「紙幅がなかった」との弁があるが、この完全スルーにまずは驚かされた。いやあ拍手喝采である。
 ジャーナリスティックではなく、アカデミックに左翼運動史を解説する(第一部・第二部)。現場感覚・合意形成を重視しながら、ともすれば、ウチ向きな、集団エゴに嵌り込んでしまう運動と、高い理想から革新性・普遍性を追求するも、ともすれば、上から目線で現場感覚と乖離してしまう理論派主導の運動。この二つの運動体の相克を通して、20世紀初頭からの日本の社会主義運動を俯瞰する。著者は、NHKドラマ『獅子の時代』から、前者を「銑次の道」、後者を「嘉顕の道」と命名している。
 本書第三部は、このふたつの概念装置から、現下のさまざまな社会変革運動を検証する。このあたりから著者ならではの視点と物言いが、スコンと腑に落ちて読んでいて気持ちいい。
 まずは「暮らしの利害」(お金の損得勘定のこと)を離れたところでの運動体の陥穽を指摘している。「人権」であったり「エコロジー」であったり、これらを天下り的な価値としてしまうことで、今日大量に出現しつつある貧困層にとっては「抑圧」として働いてしまう逆説。あるいは「責任」の所在への考察。未知の不確実なことをやるさいの責任の引き受け方を考える。資本主義体制における資本家のリスクの取り方から、株式方式の運動体をも容認していくあたりが、教条的な物言いでない、著者ならではの目配りである。
 著者の主張は「嘉顕の道」と「銑次の道」を行きつ戻りつ交代させながら、それぞれのいい側面をできるだけ持続させることの大切さを説く。権力は腐敗する。組織というものはすべてその萌芽を内包しているわけだが、腐敗の予兆以前に、権力(リーダー)の交代を促すルールの確立。これが過去に繰り広げられた相克の運動史から学ぶ教訓である。実行は、とてもむずかしいことではあるが、この「交代」が運動体内にシステムとして、スマートな知性を持って構造化されていくことがポイントになってくるだろう。
 さらに組織論からだけではなく、私たちが自立した個人として、社会の変革にどうかかわっていくべきかを語る。コミュニティが崩壊し、バラバラになって弱体化してしまった個が、ひとりでは背負いきれない非情な自己責任を負わされていく。そうした趨勢に掬い取られてしまった感のある、とくに今の若い人たちには(たぶん本人たちにそうした自己認識はないであろうが)ぜひ一読してほしい下りである。著者の用語では「結節点としての個人の創出」と表現されているが、つまり個々人において複数のアイデンティティーをもつことの必要を説いている。一義的に生きない。そのためには、さまざまな異質な集団に多重帰属し、「すべての集団の人間関係を気にして振る舞う」。そこから、強烈に自立した個人が獲得される、と。社会性と個人性がトレードオフではないのだ。私はここで著者が何気なく挿入している「気にして」というフレーズがとっても気に入っている。
2012.8.19(か)
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